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 ニトロが案内してくれた店は、予想を超えてうらぶれていた。
 『ウェジィ食堂』と、異様に古ぼけた看板にそう大きく書かれている。
 ぼやけた店構えだとティディアは思った。
 年季が入っていると言えば聞こえもいいだろうが、『場末』という言葉がこれほど似合う食堂も珍しい。
 塗料の剥げた扉の横、薄ぼけた板晶画面ボードスクリーンが示す昼の営業時刻はそろそろ終わりに迫っていた。中から喧騒が聞こえてこないのは、もう昼時の客がいなくなってしまったからだろう。
「よくこんな店知ってるわね」
 普通ウェジィに来る買い物客が食事をするのは、メインストリートとその周辺のカフェかレストランだ。夜ともなれば路地のバーにも集まるが、それでもここまで街を外れた場所に来るものはほとんどいないだろう。
「前にちょっとね」
 楽しげに訊いてきたティディアに、ニトロは短く応えるとノブに手をかけた。
(……バレるだろうなぁ)
 ニトロは横目にティディアを見た。
 浅い変装程度の彼女と、たかだか瞳に青いカラーコンタクトを入れただけの自分が席に着いているところを見れば、よくテレビに映るコンビだと悟られるのは時間の問題だ。
 それを考えると気が重いが、こうなったからには仕方ない。
 ニトロは扉を引き開けた。
 ウェジィ食堂は、外見だけでなく内装までうらぶれていた。中に入ってすぐ両脇に四人掛けのテーブルが二つずつあり、その先は厨房とそれに面した七人掛けのカウンターがある。
 小さいとは言わないが、大きくもない。しかしどことなく狭い印象だった。
 店内は清潔にされてはいるが、物々の年季か、不揃いなテーブルの椅子のためか、それとも油汚れが染みついた壁や天井の暗さのためか、清潔感より薄汚れた雰囲気がはるかに勝っている。
 空調は設定温度を高くしてあるらしい。
 外気より慰め程度に涼しい風が厨房から沸く熱と湿気を吸い込んで、涼気の所々に生ぬるさを編み込みながら店内を巡っている。
「 いらっしゃいませぇ」
 もう客は来ないと思っていたのか、ワンテンポ遅れたタイミングで鼻がかった声がニトロ達を迎えた。
 カウンターの先、専用の席なのだろうそこから恰幅のいい初老の女性が歩いてくる。左足が悪いようで、ロングスカートの裾から覗く足首に機械式パワードサポーターの固定バンドが見えた。
 それを見たニトロは、奇妙な感慨を覚えていた。
 店に入った瞬間、ここは何もかもが以前と同じだった。
 街の景観移り変わり激しいウェジィの中で、ここだけ時が停まっているようにも思えた。
 だが前に来た時は、彼女は機械の補助を受けずとも健脚を披露していた。怪我か肉体の衰えか、『お母さん』の変化は確かにこの場が時の流れの中にあることを、ニトロの目に形として見せていた。
「お好きな席へどうぞ」
 盆にコップを三つ、それに汗まみれの銀色のポットから水を注ぎ込み『お母さん』が言う。
 ニトロは入口脇のテーブルに、厨房に向かって座った。ティディアはニトロの隣に座ろうとして――しかし思い直して彼の正面に座る。
 ニトロは内心舌を打った。彼女が隣に座ったら、視線をヴィタに固定しようと思っていたのに。
「ささ、どうぞ。こちらメニューです」
 『お母さん』がやってきてせわしくコップとオシボリをそれぞれの前に置き、モニター部分も曇る年代物の板晶画面ボードスクリーンを一枚置いていく。
(……バレなかった……)
 彼女の後ろ姿を見ながら、ニトロは拍子抜けしていた。
 てっきり即座にバレると思っていたのに、意外にも気がつかれなかった。それはありがたいことだが、身構えていたからには何らかのリアクションがないと手持ち無沙汰な気持ちにもなる。
 手前勝手な自分の心境に胸中で苦笑しながら、ティディアが差し出してきたメニューを見ていると、誰もいなかった厨房に真っ白な調理服を着た男性が現れた。
 見覚えのある彼が無愛想な目つきをこちらに向けて、いらっしゃいと小さくつぶやく。『お母さん』の夫らしく客達に『親父さん』と呼ばれていた彼が全く変わっていないことに、ニトロは懐かしさを感じた。あの時も無愛想だなと思ったが、今回もまたそう思った。
 変わりある妻と、変わりない夫の対比にしみじみと感じ入りながら、ニトロはコップを手に冷水を口に含んだ。傾けられたコップの底縁から水滴が、一つ二つとテーブルに落ちた。
「決まった?」
 ニトロが返したメニューを受け取り、ティディアが言う。ニトロがうなずくとティディアはメニューをざっと見て、それをヴィタに渡した。
「もう決めたのか?」
「ええ」
 オシボリで手を拭きながら軽くうなずく。
 ティディアの即断即決は有名だが、いくらなんでも早すぎるんじゃないかとニトロは思った。
「悩む楽しみとか、ないだろ。お前」
「そんなことないわよ。私はいつもニトロに悩まされっぱなし。毎晩貴方が夢に出るくらいなのよ?」
「そいつは嬉しくないなぁ。むしろ出演料取りたいくらいだ」
「いいわよ。ここは私が持ってあげる」
「いいよ。お前にどんな借りでも作りたくない」
 ヴィタが『お母さん』を呼んだ。すぐに彼女が注文を受ける端末を手に、ぱたぱたとサンダルの音を立てて寄ってきた。
 ヴィタの注文を聞いてから、近くのティディアに向く。
姫様は何になさいますか?」
 『お母さん』がティディアを姫様と呼んだことに、一番驚いたのはニトロだった。
(――気づいてたんだ)
 ヴィタがイヌの口ながらも器用にコップの水をあおり飲み一息つく横で、ティディアは姫と呼ばれても何ら動じることもなく、親しげな笑顔で『お母さん』に向き直っている。
 それはとても慣れた様子で、ニトロはそうかと理解した。
(こういう反応もあるんだな……)
 水を一口含みながら、思う。
 確かに騒ぎ立てるだけが反応の全てではない。『クレイジー・プリンセス』の反面は『親しみ深いティディア姫』だ。今までも、こういうやりとりをしてきたのだろう。
 ティディアは気楽な調子で注文を口にした。
「チキンスープのヌードルセットのCを」
「ぷ」
 彼女の注文にニトロは小さく吹き出した。視線がニトロに集まり、彼は何事もなかったように平静を装ったが、口の端からは水滴がこぼれていた。
 ティディアは視線を『お母さん』に戻し、言った。
「彼も同じのだって」
 『お母さん』がニトロに確認の眼差しを送ってくる。
 ニトロは、しぶしぶうなずいた。
「それで、お願いします」
「かしこまりました」
 おかしそうに笑って彼女は頭を下げると、入力端末を操作しながら口でも『親父さん』に注文を伝えた。
 鼻にかかっている声で早口に、しかもメニューを略して言うから何を伝えているのかよく判らないが、しかし厨房からは即座に食材を取り出す音と短い返事が返ってきた。
 普通、入力端末は厨房と会計レジに連動しているから注文を口伝する必要はないのだが、昼時の混雑をさばくにはそちらの方が都合良いのだろう。
 長年磨いてきたコンビネーションを披露した後、会釈をして定位置に戻っていく『お母さん』の背中をティディアはじっと見つめていた。
 ニトロは彼女の後頭部が何を言わんとしているのか察していた。
 正面に振り返ったティディアはニトロが自分のことを見ていたのに気づいて、微笑んだ。
「気が合うわね」
 言葉にはしていないが、あの夫婦めおとのようになるわよと顔全体で主張している。
「素晴らしい洞察ありがとう」
 ニトロは取り合わないと体全体で主張して、皮肉を返した。
「やっぱり私達、うまくやっていけそうね」
 ティディアは観念しなさいと瞳で言う。
「いやいや、偶然って怖いよなー」
 お前こそ諦めろとニトロは態度に表す。
「きっと神様の思し召しね」
 面白い冗談だとティディアは笑った。
「この世に偶然はないって説もあるけど、絶対偶然はあると思うんだ。そう、今まさに」
 ニトロは冗談違う本気だボケと笑い返した。
 その様子を、話は微妙にかみ合っていないのに互いの意図を完璧に理解している二人を見ながら、ヴィタは含み笑いをこぼした。
 耳ざとくニトロが気づいて、振り返る。
「何さ、フィナさん」
 ヴィタは目を細めて、一度ティディアを、それからニトロを見た。
猿孫人ヒューマンのこれだけ見事な以心伝心は、初めて目にしました」
 その言葉に、ニトロはうめいた。
 言われてみれば、そう思われて当然のやり取りをしていた気がする。いや、していた。ティディアの顔面の緩みっぷりを見れば確信もできる。
 しかし、
「いやでもそれって断じて好意とか、気が合うからとかじゃないよ」
 ニトロはヴィタに言いながらも、ティディアに向けて釘を刺そうと声を強めた。
「敵に勝つには敵を知れって言われた成果だよ。うん、きっとそうだ」
「誰に言われたの?」
 横手からティディアが訊いてくる。
「ハラキリ。あと芍薬が買ってきてくれた兵法書」
 と言って、ニトロは思い出した。ちょうどいい話題の転換になると、間を置かずにティディアに向き直る。
「そうだ、ハラキリはいつ帰ってくるんだ? ティナなら知ってるだろ?」
 問われてティディアは、苦笑した。
ティディア、でいいんじゃない?」
「――あ、そうだな。いや、それはどうでもいいんだよ」
「どうでもいいって、酷いわー」
 ふて腐れたように言いながらティディアがヴィタに目をやると、ヴィタは銀色の腕時計をちらと見た。
「約五時間後に到着されます」
「だってさ」
「あ、今日帰ってくるんだ」
 ハラキリが未だに帰星していないのは、彼が道中で巻き込まれた事故の調査協力のためだった。
 その事故そのものは彼が搭乗していた星間航空機スペースシップが起こしたものではなく、航路付近で救難信号を発していたラミラス星籍の船の事故に巻き込まれたためのもので、幸い星間航空機スペースシップに乗っていた客らに怪我人は出なかったが、救助活動の際に客室乗務員が三人死亡したという。
 そして、救助活動への協力を申し出た、特殊な技能を有した民間人の一人が重傷で、もう一人が軽症。
「一緒に迎えに行く?」
「うん……行く、けど……」
 ティディアの申し出に、ニトロは引っかかった。
 『一緒に』――
 まるでそれは自分の予定の中にあったというような物言いだった。王女自ら、迎えに。ハラキリを友達だからと迎えに行くくらい彼女なら気軽にしそうなものだが、本当に迎えに行くだけなら前からこちらに声をかけてきていたはずだ。これほど都合のいい『デートの誘い文句』は、ないのだから。
「やっぱり、結構大事おおごとだったのか?」
 セスカニアン星に向かっていたその星間航空機スペースシップがアデムメデスのものではなく、また邦人も乗っていたのはハラキリと『映画』の関係者達だけだったために、彼らの無事が確認されるやこちらのニュースでは扱われなくなっていった。
 そのため芍薬に情報を集めさせて事故の詳報を追っていたが、追うに連れてニトロは大きな違和感を抱くようになった。
 公表されている事故の規模にしては聴取にかかる時間が長過ぎた。ハラキリ達だけならまだしも、同じ星間航空機に乗っていた客達の帰星もまだだ。
 そして――死者が出た以上けして軽い事故ではないとはいえ、しかしそれでもセスカニアン星の『政府』が被害者達を厚遇して留めるほどの事故ではないだろうと、ニトロは思っていた。
「ハラキリ君もついてないわよねー」
 愉快気にティディアが言う。彼女はまたヴィタに目配せし、ヴィタは時計をいじって何やらデータを呼び出すと、うなずいた。
「予定の時刻通りに公表されています」
「ん、分かった」
「何がだよ」
 あからさまに隠し事を手にしている彼女らに険立てて問うと、ティディアはまた愉快気に笑った。
「やー、むしろ私がついてたのかな」
「だから何が」
「ハラキリ君が巻き込まれた事故は、神技の民ドワーフ呪物ナイトメアが関わってたのよ」
 笑顔で言いのけた彼女のセリフに、ニトロの頬が激しく引きつった。
神技の民ドワーフの?」
「そ、呪物ナイトメア
 素子生命ナノマシンや、星間渡航にかかる時間を恐ろしく短縮させたワープ技術をこの世にもたらした、驚異的な科学技術を誇る集団――神技の民ドワーフ
 彼らの詳細は謎に包まれており、どこの国にも、どこの組織にも属さず、またどこを本拠にしているのかさえ知られていない。未開の惑星に秘密の居住区を持っているとも言われるし、その脅威の科学力を持って亜空間に居を構えているとも言われてもいる。
 ただ分かっているのは、彼らには中心となる種族がいて、そこには絶えず優秀な――オリジナルA.I.の素プログラムを作成したプログラマーや、生体機械ゴーレム技術の理論を確立させた研究者のような――人材がスカウトされているということだ。そしてドワーフとは、大昔はその中心的な種族のみを表す名称だったということ。
 しかし、神技の民ドワーフはその技術その発明品で文明を有する星々を大いに発展させてきたものの、一方で呪物ナイトメアと呼ばれる恐怖の『失敗作』を生み出すことがあった。
 史上に呪物ナイトメアという言葉が現れたのは数百年前、神技の民ドワーフが壊そうとしている『失敗作』があると知った国家が軍事利用を目的にそれを譲り受け、結果、星ごと『悪夢に飲み込まれて』滅びた事件がきっかけだった。
 そして『呪い』とでも言うべき『失敗作』の悪影響は、今でもその星の近隣に悲惨としか形容できない被害を残している。
 迷惑なことに呪物ナイトメアは無生命の星や誰も通らないような宇宙空間に投棄されていることがあるため、以降、その機能その力の大小に関わらず、神技の民ドワーフ呪物ナイトメアを発見した際には全星系連星ユニオリスタに連絡し、全星系連星ユニオリスタ主導で処理を行うのが法律ルールとなっている。
「よくそれで……」
 『事故』で済んだものだと絶句したニトロを見ながら、ティディアは背もたれに体重をかけた。
「まあ、それでハラキリ君その起動しちゃってた呪物ナイトメアを停めるのに一役買ってね
 むしろハラキリが主体になって呪物ナイトメアを停めたのだ。ティディアの口調からそれを察したニトロは、しかしあえて追求することはしなかった。
 ついさっき『むしろ私がついてたのかな』と彼女は言った。それはアデムメデス人のハラキリの働きで、アデムメデスが外交上の良いカードでも手に入れられたということだろう。
 彼女はそのおもてに、政務における王女の一面を少しだけ覗かせている。ヴィタにこの話題が口に出せるか、おそらくは外交相手の公表の時刻を確認していたことを考えれば、深く知らない方が良さそうだ。
 いや、知りたくない。
 知ればそれが自分のティディアへの『弱み』になる。機密なんぞ知らされて深みにはまっていくのは絶対に避けたい。
「それでさー」
 それに『お母さん』と『親父さん』にもいい迷惑だ。こんな話。
「原因はラミラスの」
「待った待て待て! もういいよ、あとはハラキリに聞くから」
「えー。ニトロに話したくてうずうずしてたのに」
「なら夢の中の俺にでも存分に話してくれ。とにかくっ、この話は終わり!」
 大手を振って×印を作るニトロの勢いに、ティディアはちぇっと舌を打った。必死な彼が楽しいからもうちょっといじってみたくもなるが……背後で鳴る食器の音を耳にして、やめておくかと口を閉じる。
「お待たせしました」
 『お母さん』が大きなトレイに料理を乗せてやってきた。ナイフとフォークを三人の前に並べ、それからティディアの前に三品を並べる。
「ありがとう」
 ティディアが会釈する『お母さん』に笑顔を向ける。
 ニトロは口の中につばが溢れるのを堪えられなかった。
 『お母さん』はすぐに厨房に戻り、またすぐにニトロにティディアと同じ料理を持って戻ってきた。
 ボール型の深皿を満たす鶏と数種の野菜から煮出されたスープに、平細のヌードルが泳いでいる。スープは丁寧な仕事で澄み切り、ヌードルは艶めいてコシの強さを見るだけで歯に伝えてくる。
 深皿の横には平皿が二つ並び、片方には旬の焼き野菜が美しく盛られ、もう片方ではシーフードピラフが湯気を立てていた。
 食欲をそそる香りが鼻腔を殴り、胃袋を挑発してくる。ボリュームも十分、相手に不足もない。
「はい、あとこちらね」
「……うわ」
 最後に、次々とヴィタの前に並べられていく六品を見て、ニトロは愕然とうめいた。
 特大ステーキが二枚、ジャンボハンバーグが一つ、それにサラダとパンとスープ。テーブルの半分が、ヴィタの注文で埋まっている。
「細いのによく食べるんだねぇ」
 『お母さん』がからからと笑いながら言う。
「楽勝です」
 マリンブルーの瞳は涼やかに、しかし力強く言った。
「こんなに大食いだったっけ?」
 自分では到底完食できそうにないボリュームに圧倒されたニトロの問いに、ティディアは平然とうなずいた。
「知らなかったっけ? メタもった時はいつもこんなんよ」
 ティディアの言葉を『お母さん』は理解できなかったようだが、ニトロは内心で納得していた。
(それだけカロリー使うってことか)
 変身能力者メタモリアのことはよく知らないが、きっとそうなのだろう。
 ふと厨房を見れば、『親父さん』は黙々と使った調理器具を洗っていた。これだけのメニューを同時に出せるようタイミングを計った彼の腕は、以前から少しも衰えていないようだ。
「それに……」
 早速ナイフとフォークを手に取ってつぶやいたヴィタが、自分に言っていると気づいてニトロは振り向いた。
「今後の予定のためにも、スタミナをつけておきませんと」
「今後の予定?」
「まずはレドリで買い物ね」
 ティディアが言う。ニトロは彼女が口にした店名に覚えがあり、どこで知ったかと思い返せばここに来る途中に見た店だった。
「ティディアも気になったんだ」
「あら、ニトロも? やっぱり気が合うわねー」
「良いものは万人を惹きつけるそうだよ」
 適当にあしらって、フォークを手に取りながら次を促す。ステーキを切り分けながら、ヴィタが言った。
「その後は、メインストリートで大騒ぎです」
「ああ、それも予定に入れちゃうのね」
 そりゃ体力勝負だ。いざとなったらヴィタの力がものを言うから、そりゃあスタミナもいるってもんだ。
「ハラキリ君を迎えに行くんだから、途中でダウンしないようにね」
「できれば平穏に過ごしてから向かわないかい?」
 ニトロの提案は華麗にスルーされた。
 ティディアがフォークを手に取って、いただきますと言う。
「なあ、平穏に平和にだね? せっかくのデートなんだからゆっくりさぁ」
 ヴィタがいただきますと言って、肉の塊を牙の中に放り込む。
「あ、美味し」
 ヌードルのスープを一口すすったティディアから感嘆が漏れた。
 彼女の肩越しに、厨房の『親父さん』がにやりと笑うのが見えた。
「……いただきます」
 ニトロは仕方なく腹をくくった。
 先の不安をあれこれ考えたところで何にもならない。だから今は、ただただ思い出の味を存分に味わおう。
 ヌードルをフォークに絡めて口に運び、スープが絡む平細の麺を熱さに気をつけて啜る。麺の香りとコシが歯に応え、スープに溶け込んだ素材の旨味が舌の上に踊った。
「ああ……」
 記憶が鮮明に蘇る。
 そうだ、あの時も席はここだった。
 父が横に座り、ティディアのいる席に『お母さん』『親父さん』と店の夫婦を呼んでいた青年が座っていたんだ。
 その時は、まさかそこにお姫様が座り、その横には獣人の姿の執事が座って一緒に食事をすることになるなんて――思ってもみなかったけど。
「美味しい」
 ニトロは微笑み目を閉じ眉根を寄せて、幸せと奇妙な感慨を深く深く噛み締めた。



 ハラキリは予定通りの便でアデムメデスに帰ってきた。
 神技の民ドワーフ呪物ナイトメアに関する件が、最大の当事国であったラミラス星と、巻き込まれた形のセスカニアン星の共同声明で公表されたため、どこのニュースもそれを大きく取り上げていた。
「素早いよなー」
 アデムメデス国際空港のVIPルームで、アデムメデスに戻ってきた事故被害者――ハラキリと『映画』関係者達のコメントをモニターに見ながら、ニトロはぼやいていた。
 モニターの中で彼らは多くのマスコミに囲まれている。別に今日彼らが帰ってくると注目されていたわけでもないのに、よくもこれだけの取材陣が集まったものだ。
 だが、基本的にハラキリ達は事故に巻き込まれただけで、詳細を知っているわけではない。一応この中では最も関わっていたハラキリも、救助活動を人手が足りなくなった部分の穴埋めをしただけだから、彼が口にするのもその立場からのものばかりだ。
 あくまで英雄は、救助を行ったセスカニアン星の星間航空機スペースシップの客室乗務員達。自分はほんの少し助力しただけだと。
 派手で刺激的な話もコメントも、リポーターがどれだけつついても特に出てこない。元々遠い地域での事件だ。この話題もすぐに有象無象の情報の中に埋もれていくだろう。
「そういや『監督』は? 一人だけ帰ってきてないみたいだけど」
大海蛇シーサーペントの群れと海魔王クラーケンの死闘を撮るんだって、セスカニアンに残りました」
 ニトロは苦笑した。
「いつか死ぬよ、あの人」
 救助活動に加わって重傷を負った民間人は、『監督』だと空港への道すがらティディアから聞いた。
「カメラと一緒にくたばれれば本望と言ってましたねぇ」
 こんなドキュメンタリーを撮る機会は滅多にない――それがその手の技能を持たない彼が救助活動に押しかけた理由だったそうだ。
「本当にくたばりそうになってましたけど」
 そう言って笑う少年は、少年らしくない落ち着きでそこに立っていた。
「お帰り。大変だったな」
「いやいや、『映画』の方が面倒でしたよ」
 ハラキリはソファに沈み込むように座っているニトロに、浮かべていた穏やかな笑みを苦笑に変えて言った。
「ところで、ニトロ君こそ随分お疲れのようですが……」
 ぐったりと、それこそソファから立ち上がろうともしないニトロは、少々やつれて見える。
「何があったので?」
 ハラキリは、彼に寄り添うように座っているティディアに訊ねた。
「デートしてきただけよ」
「あれをデートと言うお前の頭はやっぱりどうかしてる」
 ニトロが見ていたニュースの話題が変わった。『次はウェジィ大騒動』とテロップが打たれた映像がしばらく流れて、それからコマーシャルに切り替わる。
 ハラキリは腕を組み、感じ入ったように息をついた。
「ニトロ君、足が速くなりましたねぇ。持久力も上がっているようですし、トレーニングちゃんと積んでいたみたいですね。感心感心」
「私もびっくりしちゃった。この分だと、ニトロに守ってもらえる日も近そうだわ」
「まあ、そこらへんのボディガード並みの技量は持たせるつもりですけどね」
「お前を守るよーになっちゃ俺は終わりだ」
「とまあ、心構えが駄目駄目なので諦めた方がよろしいかと」
「あら、そんなつれない。洗脳くらいしちゃってくれないの?」
「専門外ですねぇ」
「さらっと恐ろしいこと言うなっつーかハラキリも専門内だったらやる気かコラ」
 がばっと体を起こしてニトロは険悪な目をハラキリに向けた。だが彼は飄々とした様子で、それを軽く受け流す。
 膝に手を突いて立ち上がりながら、ニトロはため息をついた。
「なんつーかさ、ハラキリが帰ってきたって感じがするよ」
「そうですか? お久しぶりです」
「ああ、本当に久しぶり」
 もう一度、ニトロは息をついた。
 安心感があった。傍にティディアと、背後には姿を元に戻したその執事がいるのに彼がいるだけで心持ちが断然違う。一方的に守勢に回るしかなかったパワーバランスが改善されたことが肌に感じられ、頼もしかった。
 ここに芍薬がいればもっと心強かろう。そうすれば、『敵』と完全に伍することもできよう。
「それで、足を用意してくれるそうですけど」
 ハラキリが、ニトロからソファに座るティディアに視線を落として言った。
「途中、寄ってほしいところがありまして。少しお時間頂いてもよろしいですか?」
 その瞬間、ニトロの背をびりっと嫌な予感が走った。電撃のような悪寒に顎を引かれて肩越しに振り向く。ティディアは企てに染まる頬を緩やかに持ち上げ、何かを言わんとしていた。
「いや、俺が送るよ。てか送らせてくれ」
 この安堵が勝る環境を変えてなるかと、ニトロはハラキリに振り向きながらもティディアを制するように強く言った。
 そのニトロの様子にハラキリは怪訝な眼をしたが、ニトロの瞳に溢れる『懇願』に気づくと微苦笑を浮かべた。
「すいません、おひいさん。折角ですがやっぱりニトロ君にお願いすることにします」
 小さな舌打ちがニトロの耳に届いた。
 ニトロは内心、ざまあみろと勝ち誇った。
 その二人の見えざる応酬は、ハラキリにはまるで無言劇のように思えた。
 このまま劇がどう展開するか観ていたかったが、それより先にやっておかねばならぬことをふと思い出し、ハラキリはティディアに言った。
「ああ、そうだ。おひいさん、ラミラスからの親書です。使用暗号は、クイーン/クラブ/351」
 と、付けていた腕時計を外す。
「ヴィタ」
 ティディアに命じられてヴィタがハラキリに歩み寄る。彼から腕時計を受け取り、携えていた端末から伸ばしたコードを接続すると、その画面を確認した藍銀あいがね色の髪の麗人は主にうなずきを見せた。
 ティディアは、ハラキリに労いの眼差しを送った。
「お疲れ様、ハラキリ君」
「ただ働きはもう御免ですよ」
「そんなこと言わないで。またよろしくね」
 軽くウィンクするティディアに、ハラキリは肩をすくめた。
 そのやり取りに、ニトロは口を真一文字に結んでいた。
 なぜどこまでも一般人のハラキリが『親書』なんてものを持ってきたのかなどと、そこに踏み込んではいけない。そしてどうせ表向きのものは別に送られているんだろうなどと、勘繰ってもいけない。
 この件に関してはどこまでも置いてきぼりでいい。
 今のやり取り全て、自分は何も聞かず見なかった。使用暗号なんて聞いてない。腕時計とかそんなものは、絶対に見なかったのだ。
「帰りって、車でいいよね?」
 極力平静を装って、ニトロはハラキリに聞いた。
 ハラキリはニトロの額に冷や汗が滲んでいるのを見たが、何となく彼の心情を汲んでうなずきを返した。
「ええ。そういえばニトロ君、車買ったんでしたね」
「おう。あ、荷物は?」
「ダイレクト便で送りました」
「言ってくれれば後で届けさせたのに」
 ティディアが会話に入り込んでくる。ちょうどニトロは携帯電話を取り出していたから、ティディアのことはハラキリに任せることにした。
「これくらい、おひいさんに甘えさせていただくほどのことじゃありませんよ」
「まるで他で甘えるって言ってるみたいね」
「ただ働きは御免です」
 ティディアは笑った。
「いいわ。何か奢ってあげる。あ、アクセサリーとか興味ある? いい店見つけたんだけど」
「ああ、それでウェジィにいたんですか。しかし何でまたニトロ君も?」
「偶然」
「それはまた……」
 芍薬に、空港まで迎えに来るよう伝えたニトロが通話を切るのを見て、ハラキリは苦笑した。
「ニトロ君は運が悪いですねぇ」
「なんかねぇ、最近俺の運をバカに吸い取られてる気がするよ」
 ニトロは眉間に皺を寄せた。携帯をポケットにしまい、ソファに座っていたティディアが立ち上がったのに気づいてふと顔を向ける。
 そして――
「……は?」
 突然ティディアの両手に顔を挟まれて、ニトロは戸惑いの声を上げた。
 何をいきなりこの女はしようと言うのか。
 ティディアは陰惨ににっこりと、それこそ獲物を狩り殺す熱に浮かれた嗜虐者の顔で、嫌に眼をぎらつかせている。
「したわね?」
「はぁ?」
「芍薬ちゃんに、連絡、したわね」
「――――はっ!」
 愕然と、ニトロの体全体が硬直した。
「言ったわよね。ニトロ、今日一日キスでもって」
 彼の顔面を固定するティディアの両腕に、ふるって力が込められる。興奮のあまり彼女の瞳孔は大きく開ききっている。
「いや……待てお前……まさかあん時からこれを――」
「自分で言ったことは、ちゃんと守らないとね!」
「ぎゃああ! 待て落ち着け! まずは話し合おうってヴィタさん何を!?」
 迫るティディアの唇から必死に顔を背けようとするニトロの目に、ハラキリの傍らでカードサイズのカメラを構えるヴィタの姿が飛び込んできた。
「かかかか、カメラ!?」
「んふふー。明日の『特集』が楽しみー」
「おぉっ前このチクショ少しは恥じらいとか何とかうわわワムゥッ!」
 強引に唇を奪われて暴れるニトロ。
 逃してなるかと片手で彼の頭を片腕で胴を巧みに抱え込み、情熱的に接吻し続ける王女。
「えーっと?」
 すっかり状況から放置されているのに激しいデジャヴュを感じて、ハラキリは頭を掻いた。
 状況を鑑みて、それから黙々と映像を撮り続けるヴィタに振り向く。
「もしや、拙者は『出汁』にされちゃいました?」
「御明察」
「……う〜ん」
 ハラキリは苦笑して、今にもソファに押し倒されそうなニトロと、彼に食らいついているようにも見えるティディアに目を戻した。
「止めなくていいんですか?」
「面白いです」
「いや、このままだときっとまたぶん殴られますよ?」
「覚悟オッケーです」
「……そりゃあ、また」
「――――ンムーーーーー!?」
 ニトロのくぐもった悲鳴が急にトーンを上げた。
 そして彼の腕が大きく広がり、そのグーに握りこまれた拳が、ティディアのコメカミを左右から挟みこんだ。
「?」
 ティディアの目が見開かれた。完全に覚悟外のニトロの行動だったか、表情はきょとんと呆けている。
 刹那、ニトロの腕筋が膨れ上がった。ティディアのコメカミに当てられた両拳がぐりぐりと、グリグリと回転を始める。
「――――――ッ!?」
 ティディアの顔が険しく激しく歪んだ。
 彼女は堪らずニトロを解放し、そして絶叫した。
「ぃぃぃだだだだだだ!」
 悲鳴を上げ己の頭を万力のように締め潰そうとするニトロから逃れようと、彼の両手首を掴んで拳を引き剥がそうと暴れ出す。
 だが、吸盤でも突いているのかコメカミに抉りこむニトロの拳骨は毛の隙間ほども離れない!
何をさらすかくぉのクソ痴女がぁぁぁぁぁ……!」
 ただいっそうグリゴリと。
 ゴリゴリュッと
「ぅイィィハーーーーーーーーーーーーーーーーー!!
 ごめ! やり、すぎたっ!ッ 痛たたたぅあきゃきゃきゃ! ギ― ―ギブァ! ニ.ド  ニトロギぃぃぃブ!!!」
 しかし赤鬼となったニトロは渾身の力を緩めない。
「UmeBoshiアタック。初出」
 記録でもしているのか、冷静に執事がつぶやく。
「――――――――――――っっ!!」
 もうあまりの激痛に声すら出せず白目をむいているのに、そのくせどことなく、王女様の惚けた顔には達成感が見受けられる。
「…………」
 手持ち無沙汰のハラキリは、腕を組んでその光景をしばし眺めていた。
 その、銀河を渡り宇宙を回ってどこを訪ねても、けして見られなかった珍妙な光景。
「ああ……」
 彼はやおら深く息をつき、そして胸に去来した深い感慨を噛み締めるように頭を振った。
「拙者は帰ってきたんですね、アデムメデスに」

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