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 『レドリ』から二つ目の四つ角を曲がり、背の高いビルに日光を遮られた路地に入る。このあたりには完全に人気はなく、日陰の底ともあって陰気さが漂っていた。
「あの……ボクに何の用でしょうか」
 年中影の中にあるためか、少し苔臭い壁を背にしてニトロは身を縮めていた。追い剥ぎや強盗に遭ったことはないが、遭えば絶対こんな感じだろうなと思いながら。
「お金、持ってませんよ。てか駄目ですよ? 働いた方がローリスクでお金手に入れられますよ?」
 真正面で腰に手を当て仁王立つ女。その両目が、鳥打帽キャスケットのつばの影で閃いている。
 猟銃を突きつけられている気分だった。
 それとも、彼女の後ろに控える猟犬の爪牙に引き裂かれるのをただ待つ身か。
(ああ、さっきの悲鳴を聞きつけて誰か正義の味方が助けにこないもんか……)
 ささやかな希望は、滞った事態を何ら進展させることはない。
 こちらを見つめる眼差しは何も言わず、きっと頭の中に無数の献立を思い浮かべてジッと獲物を窺っている。
 やおら、ニトロはため息をついた。頭を掻いてぶっきらぼうに言う。
「なんでここにいるんだよ」
 下手くそな演技で別人を装うことを辞めた彼の問いに、ようやく狩人が応答した。
「妹の誕生日プレゼントを買いにきたの」
「――ああ、ミリュウ姫の。じゃあ、何だ? 今日の仕事先はここだったのか」
 確かスケジュールでは、この時間は『視察』とあった。
 どこをとは明記されてはおらず、芍薬の調査でもどこに行くのか推測できなかった。しかしそれは抜き打ちを好むティディアの昔からの行動だから、特に警戒はしていなかったが……まさか、それにはち当たるとは。
「そうよー。ついでに色々見てきたわ。でも、そんなにしっかり私のスケジュール覚えていてくれるなんて嬉しいな」
「好意じゃないわい。
 で? いいのは見つかったのか? 彼女のことだから、お前からのプレゼントなら10Lyリェンチョコでも喜ぶと思うけど」
「さっき良さげな店があったから、そこで選ぶつもり。ニトロの意見も聞かせてね」
 つまりはこれから一緒に行動しろということか。彼女が暗に含めてきた意志を煙に巻こうと、ニトロは肩をすくめた。
男の意見を聞いて選んだものなんか嫌がるんじゃないのか?」
「んー、そうねー。お姉ちゃん好かれ過ぎちゃってるからねー」
 ティディアは困惑混じりに言うが、声にその感情はない。事実をただ口にしていると言った感じで、それよりも彼女の目はニトロに別のことをひたすら訴えている。
 ニトロは半眼で真っ直ぐに見つめてくるティディアの黒曜石を見返した。
 その一方には『デート』という文字がドでかく刻印されている。そして、もう一方には――
 煙に巻かれてくれそうもない彼女の眼力に、ニトロは片笑みを浮かべた。
「10Lyリェンチョコなら買ってやるぞ」
「指輪が希望なんだけどなぁ」
 ニトロはそれを鼻で笑い飛ばし、ティディアが文句を言ってくる前に話を戻した。
「それならなんでその店で選んでなかったんだよ」
 そうしてくれていれば『すれ違う』こともなかったのにと暗に含め返してきたニトロの言葉に、ティディアは肩越しにヴィタに振り向いた。つられてニトロも彼女を見る。
 ノースリーブにジーンズ姿の獣人は何を求められているのか察して、ニトロの視線を促すよう形のいい鼻を上向けた。
フィナがいい匂いを嗅いだからよ」
「あ〜」
 ニトロはうめいた。
 普段のヴィタは猿孫人ヒューマンの姿をしているから、つい変身後の『特徴』まで考えていなかった。
 しかし、これまで見てきた六臂人アスラインの腕力に獣人ビースターの身体能力だけでなく、特定の人間の臭いを追跡できるほどの嗅覚まで継いでいるとは……
「ちょっと反則じゃないかな」
 初対面の時も思ったが、いくら混血ミックスとはいえここまで各種族の特徴を継承しているのは奇跡的だ。しかもそれらが変身能力メタモルの引き出しに綺麗に整頓されているときた。
 もう呆れるばかりのニトロに、ヴィタの目尻が緩やかになる。
「まさか超能力サイオニクスまで持ってないよね」
「それは秘密に」
「……ティナ?」
「女の子の秘密を追求するのは野暮じゃなぁい?」
 ニトロは嘆息した。
「そうだな。じゃあ野暮ついでに言うけど」
 と、ティディアの顔を一瞥する。
 日頃の手入れが化粧だと言う彼女自慢の玉肌には、色づける粒子の一粒ものっていない。
 今日はメイクを全くしない方向で『変装』をしてきたようだ。
 髪は深緑に染められているが、しかしそれだけでは『変装』としてずぼら過ぎる。もともと薄化粧が多い彼女だから、いつもの外見と大きく変わっているわけではない。
 先ほど一瞬気がつかなかったのは、大振りの鳥打帽キャスケットを深く被り『オーラ』を消して地味を押し出した彼女の姿と、燦然とある『ティディアのイメージ』の齟齬の隙間に識別能力が足を取られたからだ。
 街を飾る宝飾の輝きに目を奪われ一人の女に注意を向けようとする者は少なかろうが、落ち着いて見ればほとんどの者が王女ではと疑うだろう。
「化粧しないだけって『変装』にしちゃ随分手抜きじゃないか? よく今までバレなかったな」
「周りに溶け込んどけばわりと気がつかれないものよ」
「そんなもんか?」
「ええ」
「そんなもんかー。
 でもさすがにと二人じゃバレるだろ。『映画』も絶賛大ヒット上映中だしさ。相っ変わらずワイドショーの肥やしだしさ。だから一緒にいない方が懸命だと思うんだ」
「問題ないわ。バレたらバレたで楽しそうじゃない。この街で大騒動が起こったら、どうなるかしらねぇ」
 ふふふと笑う意地の悪い顔。阿鼻叫喚を望んでいる、サディスティックな顔がそこにある。
 なるほどと、ニトロは悟った。目的を済ませた後、こいつは自らバレて騒ぎを起こすつもりだったか。
「その悪趣味な性癖直せよ」
「悪趣味って、酷いわねぇ。わりと大事なのよ? 非常事態の備えは」
「ふっつーに訓練で試してやれっての」
 そう言いながらも、しかしもっともだとニトロは内心うなずいていた。 確かに備えは大事だ。今度からヴィタ対策に臭紋除去剤も持ち歩こうと思う。
(でもあれ、非合法ブラックアイテムだったよな)
 だが、手に入れられないことはないだろう。以前ならその手のものは絶対必要にならなかったのにと考えると泣けてくるが、まあ、状況の変化は必然で、それを嘆いても仕方がない。
 それに嘆きたい『必然』はむしろこの現状だ。
 ちょうどティディアがいる街に来てしまい、ヴィタがイヌ起源の獣人と変じていた時点で、さっきの偶然にしてはできすぎた遭遇は確定していたのだと、口惜しくも納得してしまう自分がいる。
 まったく……思い出を追いかけてきたことが仇になるとは、洒落が効いているのか単に不運なだけなのか。
 ため息混じりに携帯電話を取り出して、ニトロはティディアにそれを示した。
「ちょっと電話していいかな」
「駄目よ」
 笑顔でばっさり即答してきた彼女にニトロはスナップ効かせたツッコミチョップをお見舞いしたくなったが、それは何とか自粛して笑顔を返した。
「何で?」
「芍薬ちゃんは面倒だもの。さすがに『デート』できなくなっちゃうじゃない?」
「もともと俺は『デート』なんぞする気は毛頭全くさらさら皆無だ」
「そこまで照れ隠ししなくてもいいじゃない。可愛らし過ぎてつい襲いたくなっちゃうわ」
「あー、何事もポジティブにすり替えるお前の思考回路はストーカー向きだと思うんだ」
「しつっこいわよー? 並みのストーカーとは思わない方がいいわよー」
「…………」
 ティディアはボーイッシュスタイルに身を包んでいた。本当は顔から目をそらさせるためだろう目深に落ちる大振りの鳥打帽キャスケットと、シャツに描かれたデフォルメされたドクロ顔の太陽が、地味目にコーディネートされた中に愛嬌を忍ばせている。
 会話の内容はけして爽やかでないのに、なぜか爽快に聞こえるのは彼女のその姿のせいなのだろうか。
 それとも何事にも動じないどころかすんなり受け入れ撥ね返してくる、彼女の特異な性質のせいなのか。
 掴み所があるようで無いティディアの急所はいつ見えるのだろう。それが世紀の難題を解くよりも途方もないことのような気がして、ニトロは暗澹たる気持ちになった。
「……芍薬に連絡するわけじゃないよ」
 だが沈んでいても仕方がない。
「用事があるんだ」
無担保じゃあ信用できないわ」
「芍薬に連絡したらキスでもしてやるよ」
 諦めがちの口調で吐かれた提案に、ティディアの目が異様に輝いた。
「期限は一生ね?」
「ど阿呆。ふっかけるにしてもせめて一日って言えぃ」
「分かった、一日でいいわ。それじゃあ早速芍薬ちゃんに連絡して頂戴。さあ!」
「さあ! じゃねぇわこのギャラクシーど阿呆」
 今にも唇突き出し迫ってきそうなティディアをしっしっと牽制し、ニトロは通話履歴を表示すると最後に話していた相手を呼び出した。
「……もしもし? あー、悪い、俺も駄目になった。
 え?
 いや、別に二人きりにしてやろうなんて思ったわけじゃないよ。あ、いや、そっちの方がいいかもしれないと今思った。
 ――はは、冗談だよ。ちょっと事情が変わったんだ。ああ、ちょっと……厄介な奴に捕まってね。いや誰って……」
 ニトロは鳥打帽がにこにこと笑っているのを見て、肩を落とした。
「察してくれ。分かるだろ?」
 ややあってから驚愕の大声が受話口から漏れた。ニトロは友人の声がティディアに聞かれたかと心配しながら、絶句したのか何も言ってこない彼に告げた。
「つーわけでさ、まあ、これはチャンスだと頑張ってくれよ」
 友人はしばらく沈黙していたが、ようやく決心して了解を返してきた。だがそれでも拭いきれない不安を吐露するのに、ニトロは電話口で笑いかけた。
「大丈夫だって。別に仕組んだわけじゃないんだから、分かってくれるって。
 うん……ああ、それじゃあまた。いい報せを期待してるよ」
 通話を切るなり浮かべていた笑顔を消し去り、ニトロは携帯電話をポケットにしまった。
 そしてふと、腕を組んで思案顔を見せるティディアの様子に、えも言われぬ不安を感じた。
「……何だよ」
 思案の中にある『不満』を敏感に感じ取ったニトロの促しに、ティディアは一転して輝くような笑みを浮かべた。
私を差し置いてグループデートする気だったなんて面白くないわ
 ニトロの顔が消し飛んだ。
「まぁでも、『俺も』ってことは先に相手の友達が駄目になったのねー。本命のカップリングはうまく残ったみたいだけど……どうせニトロを『出汁ダシ』にしなきゃ誘うこともできなかったんじゃない? ちょっと頼りないみたいだから、花火大会の力を借りてもうまくいくかしら。口も手も出せないで終わったりして」
 ニトロは、ぞっと背筋を凍らせた。
 今の断片でコイツは何をそこまで綺麗に読んでくるのか。
「……先に言っておくけど、友達に手を出したら怒るからな? 『人質』とか言ったら、本気で」
 ティディアは何も言わない。ただ、ニトロを見つめている。
(…………考えろ)
 ニトロは心中、自分に言い聞かせるように言った。
 ティディアの瞳は『応え』を強制している。さて、どう応じるべきか。無視するというわけにはいかない。すれば怒られることも辞さず、友人を巻き込んでくるだろう。
「…………お察しの通り、俺は『出汁ダシ』だよ」
 ややあって、ニトロはティディアの推理を認めた。
 余計な荷を担いでは、この女にそれを利用されてしまう。そして一度ペースを譲れば、そこから挽回することは不可能だ。それはあの『ミッドサファー・ストリートのサバト』で痛烈に経験したことだ。
「手助けしてあげようか? 私がいい感じに誘導してあげるわよ」
 ニトロの肯定に、ティディアは目尻を悪戯っぽく垂れた。
「それってお前も『グループデート』に入れろってことだろ?」
 ため息混じりの言葉にティディアがうなずき、ニトロはさらに嘆息した。
「冗談抜かせ。そんなことできるわけないだろ?」
「わりといい提案だと思うんだけどなー。皆でハッピーになれるじゃない。そのお友達は彼女ができて、彼女は彼氏ができて、私は愛する未来の旦那様と肩寄せあって花火を観るの」
「仮にその未来の旦那様とやらに俺を設定してるんなら間違いなく限りなく俺だけアンハッピーじゃねぇか」
「仮にじゃ「それにっ! 安心してお前に巻き込めるのはそうそういないんだよっ」
「んー、そうねぇ。力不足相手じゃ私も楽しめないわね」
 ニトロは、ティディアをはすに睨みつけた。
 憎らしげな眼差しすら真綿のように受け止める彼女は、一向に動揺の欠片すら表さない。その表情は無というには微笑が溢れ、しかし微笑みというにはそれはあまりに幽かで。ニトロは彼女の魔的としか言いようのない面持ちに警戒心や緊張を全て吸い盗られるような気がして、慌てて気を引き締めた。
 さっきまで鳴りを潜めていた『ティディア姫のオーラ』で心を飲み込もうしてくる彼女から意識を外そうと、相変わらず涼しい顔で、しかしどこか愉快そうに佇むヴィタに視点を逸らす。
「…………」
 ティディアに付き合わされるようになって、ニトロはこれこそが彼女の最大の武器だと思うようになった。
 皆が畏怖するティディア姫の本当に恐ろしいところは、その才気でも覇王のカリスマでも、ましてや『クレイジー・プリンセス』であることでもない。そんな概念が通るものじゃなく、理屈をすっ飛ばして何か底が知れないところだ。
 対面するとよく判る。
 全てを見通しているかの余裕に満ちた自信。押しても引いても殴り飛ばしても動かぬ存在感。
 彼女を前にした者の多くが骨抜きになるのは、蠱惑が形を成した美貌のせいだとも言われるが、そうではない。
 この……まるでブラックホールの底を覗き込んでいるような、どこか本能的な恐怖にも似た磁力のせいだ。
 得体の知れない深遠から伸びてくる見えざる手に引かれて、気がつけばティディアの前で裸になっているのだ。
 これに対抗するには強靭な意志を持って構えるか、ハラキリのように完全な自然体となって受け流すか、それともヴィタのように『ティディアとの関係性』を固めるしかあるまい。
 そしてニトロは、性格上、ハラキリの選択はできそうになかった。しかしヴィタの選択では間違いなく『ティディアの相方』しか道はないだろう。なれば選べるのは必然的に強靭な意志になり……しかしこれはなかなかしんどいものだった。
「わーかった。『グループ』は諦めろ。『デート』はしてやっから」
 ニトロは両手を振り上げ降参を示した。
 もうこの話題はここで切らねば、底なし沼のごとく足掻けば足掻くほど悪い状況に追い込まれる。それならいっそ、悪いながらもまだ自分で背負える状況を自ら用意した方がいい。
 ティディアはニトロの思惑を見抜いていると告ぐ眼をしていたが、すぐに機嫌良くうなずくとニトロの手を取った。
「いいわ。それで手を打ってあげる」
 ニトロはティディアの機嫌を良くした『企み』が一体何なのかと気になったが、詮索しても無駄かと肩を落とした。
「てか、随分上からの物言いだな、おい」
「そりゃ譲歩してるんだからね」
「譲歩してるのはいつでもこっちだ」
「そんなニトロの愛にいつまでも甘えていたい……」
「ぅあー、頭痛くなってきた」
「あら、それは良くないわ。早くニトロが行きたかったお店に行きましょう? 私が懇切丁寧に介抱してあげるから」
「病原体が何を抜かすか。ンなマッチポンプ御免被る……」
 手を引くティディアについて足を踏み出し、はたと気づいてニトロは緩みっぱなしの彼女の顔を見た。
「何で俺が『店』に行きたがってたって知ってるんだ?」
「んー? 直感」
 その半分は嘘だと直感で理解し、ニトロは半笑いを浮かべた。
 友人との短い会話から見事に『話』を言い当ててきたように、状況からの可能性と、そこから導き出した理詰めの推測の中から『直感』で正解を抜き出してきたのだろう。
「あなたの主人はおっそろしい奴だねぇ」
 鼻歌混じりに歩くティディアに引っ張られながら、ニトロは黙々と追従してくるヴィタに言った。
「『味方』であれば、この上なく頼もしい方ですよ?」
 それはティディアに『反抗』せず『相方みかた』になれとも言っているような口振りだった。
 ニトロは苦笑するしかなく、
「ねえ、ところで店はどこにあるの?」
 ようやく訊いてきたティディアの問いに、また苦笑いを深めた。
「お前が進む方向で、正解だよ」

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