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 振り返ると、仕切りの柵の向こうでとってもいい笑顔を向けている女性がいた。傍には輝くマリンブルーの瞳を、淡い色の入ったメガネで薄めた女が何げなく佇んでいる。カジュアルな服装で、ちょっとウィンドウショッピングでもしてきましたといった風情で――
「ティ……」
 『ティディア』
 そう口にしそうだった唇を必死に歪めて、ニトロはうなった。
ティナ
 決まり通りの偽名で呼ばれ、ティディアは良くできましたと言いたげにうなずいた。
 そしてヴィタを引きつれ、店内に入ってくる。
 案内しようとしたウェイトレスにニトロの知り合いと示して、こちらに向かってくる。
 ニトロは固まる全身から力を抜こうともせず、いつでも逃げ出せるように腰を浮かせていた。手は携帯電話に、指を芍薬にアクセスするためのショートカットにかけて。
 ティディア達はニトロの向かいに座ると、やってきたウェイトレスに紅茶を頼んだ。
「綺麗な人ね。もしかして彼女?」
 ウェイトレスがニトロに囁く。
 ニトロはなんとか誤魔化そうとしたが、うまく声が出ない。もどかしく、緊張で強張る手がぴくりと震えた。
「そう思う?」
 そこにティディアが助け舟を出した。肯定とも否定ともつかない言葉で、しかし嬉しそうに微笑んでいる。ウェイトレスは自分なりに良いように解釈したようだった。
 そして彼女が、ではもう一人は友達だろうと察する様子を見せた時、ヴィタがメガネを外してケースにしまいながら、ぼそりと言った。
「その祖母です」
「そ――!?」
 ウェイトレスは驚きの声を上げた。
 それもそうだ。どう見ても女性は20代前半にしか見えない。顔だけならまだしも、全身も、動作も若々し過ぎる。てか孫と比べて遜色ない若さって、一体どれだけ若化療術リプロに金かけたんだ。
 驚いたのは、ウェイトレスだけではなかった。
「ゲバボ! ケホッ!」
 ニトロは咳き込んでいた。祖母といわれた時、思わずツッコミそうになっていた。
 せめて叔母! と叫びたかった喉を無理に止めたものだから、肺に息がえらい勢いで逆流しちゃってやばいくらいに胸が痛い。
 ティディアすら想定外の眼でヴィタを見つめている。しかしさすがに彼女の対応は素早く、眼差しを愉快気に変えたかと思うと、
「お祖母さん、尖耳人エルフカインドとの混血ミックスだから」
 さも、この状況がいつものことでそれを楽しんでいますという様子で、ウェイトレスに微笑みかけた。
 ヒト型の中で最も長寿と知られる尖耳人エルフカインド。それとの混血ならばこの容姿でも不思議はない。
 ヴィタが首を傾げると、チャコールグレイに変えられたロングヘアの中から、尖った耳先がのぞいて見えた。ニトロはそれが『変身能力』を用いて作った擬耳だと知っていたが、知らぬ者が見ればそれは疑いもなく尖耳人エルフカインドの耳だった。
 ウェイトレスは納得すると同時に、ばつが悪そうに誤魔化し笑いを浮かべて持ち場に戻っていった。
「……あのねぇ」
 ニトロは、半眼をヴィタに向けた。
 だがヴィタは涼しい顔に微笑みを乗せている。満足そうに、今もニトロが次にどんな反応を見せるのか期待しているように。
 隣にも鎮座する同じ笑顔を見ると、本当にこの二人には血の繋がりがあるんじゃないかと思えてならない。いや、少なくとも、魂的には絶対家族だ。
「ああ、もういいや」
 ニトロはため息をついて、改めて向かいに座るティディアを見た。
 彼女は地の黒紫色の髪を明るい茶に染め、同色と金色の二種のエクステをつけている。普段セミロングの髪は完全になりを潜め、ロングヘアに化けた頭部は毎日メディアに登場する王女の面影もない。
「大体、なんでここにいるんだよ。まさか尾行してたのか?」
「あら心外。本当に偶然よぉ。
 前にニトロがここが好きだって聞いてたから『お忍び』あそびにきたの。そしたらニトロがいるじゃない。ビックリしちゃった」
 顔も、微妙に違う。基本は押さえているものの、ポイントポイントを絶妙に悪い方向にずらしたメイクが、見事にティディア姫の雰囲気を砕いている。いつもなら高貴だとかデモニックだとかと形容されるものが、今はきっと素朴だとか普通に綺麗だとか、評価辛けりゃ化粧が下手とはっきり言われるだろう。
 実際、顔はティディアのままだ。だが『ぼんやりと似ている』風になっているから、だからこそ逆に『あのティディア姫』だと確かめづらい。まさに化粧の妙技だった。
フィナさん、本当に?」
「はい」
「……本当に?」
「でなければ、姿の前にプランに力を入れているでしょう」
「あー、そう言われるとなあ」
 確かにティディアの変装への力の入れ様は、計画プラン立てて迫ってくる時にはないものだ。
 顔と髪だけでなく、プロポーションまで胸を小さくすることで変えている。布で締め付けているそうなのだが、わりと苦しいと言っていたし事実苦しいはずなのに、それをおくびにも出さない。彼女は根性の使いどころをきっと間違っている。
 そして何よりも凄まじいのは、その『ティディア姫のオーラ』の消しっぷりだ。
 あらゆる方向あらゆる時空に放っているかのようなティディアの自信。
 王族という貴石まで着飾るカリスマ。
 敵のみならず、味方にすら目を素通りさせることは許さないと強迫するクレイジー・プリンセスのエネルギー。
 黙っていても滲み出て、モニター越しにさえ触れてきそうな王女のオーラが、テーブル越しの向こうには見る影もない。
 ティディアが演技上手だとは身に染みているものの、この芸当はいつ見ても……正直、本当に素晴らしい。
 メガネを外し美しい瞳を解放したヴィタの魅力にしっかり呑まれているから、彼女があの王女だとは誰も疑いすらしないだろう。
 考えてみれば、ティディアがここまで『ティディア姫』を消して現れる時は、まともにデートしようと誘う時くらいのもの。
 そういう時はお目付け役にハラキリを巻き込むことはあっても、自分の部下を連れてくることは決してないことだった。
 その点に関してはハラキリも認めていて、「彼女なりのルールでしょう」と、安心していいと言っていた。
(……こりゃ本当に偶然かな)
 ティディアの強運には舌を巻くしかない。
 ちらりと彼女を見れば、どうやらこちらが納得してしまったのを気取けどったらしく、ニヤニヤと笑いかけてきた。
 自分の悪運には、涙を流すばかりだ。
「相変わらず見事な化けっぷりだな」
 ニトロはせめてと皮肉をぶつけたつもりだったが、ティディアには誉め言葉と聞こえたようだ。嬉しそうに顔を輝かせるのが、外からは恋人に誉められた女性と取られそうで恐ろしい。
(それにしても――)
 ティディアの変装は以前に増して磨きがかかったものだ。
 昔は、数週に一回はお忍びがばれて大騒動を起こすお姫様のニュースが流れたものだが、ヴィタが仕えてからは全くその気配もない。
 さすがは『変身』の名人だと、ニトロは、マリンブルーの瞳で主人とこちらをじっと傍観している執事を見た。
 彼女の顔もいつもと違う。鼻筋や眉のラインは全く別人だし、目も平常より切れ長になっている。
 『変身能力』をアナログに扱える彼女ならではの変装だった。変身能力者メタモリアの中でもここまで器用な者はそういまい。多様混血ヴァリアスという環境が、彼女にこの能力を与えたのかもしれない。
(ほんと、便利な人だ)
 ティディアが新しい執事をメディアで紹介した時、そう言っていたのを思い出す。
 ヴィタは付き人としても、付き人のためのコンシェルジュとしてもプロフェッショナルだ。今日のティディアのメイクは彼女の手によるものだろうし、ファッションにもアドバイスをしているだろう。
 顔を変えられるため、ヴィタが傍にいることからティディアの存在が周知されることはない。頼れるボディーガードにも使いぱしりにもなれる。執事としての仕事振りも有能だ。
 もし、唯一ティディアが不満を持つとすれば、ヴィタがあくまで従者の立場を崩さないことかもしれないと、ニトロは思う。
 こちらのことをいじって楽しむことに関しては同志でも、それ以外には主従の関係がある。ヴィタがその点に絶対的な境界を敷いているのは、自分にも解る。
 もちろんそれは当然のことだろうし、ヴィタのプロとしての心構えもあろう。
 だが、ハラキリと馬鹿話をしている時のティディアの顔と比べると、幾分か、ほんのわずかだが、ヴィタに対する翳りを見てしまう。
 それが一体どんな心情のためなのかまでは解らないが――
(……って、俺は何を考えてるんだ)
 何だかティディアを理解し始めているような思考を、慌ててシャットダウンする。
 ちょうどウェイトレスが二人の紅茶を運んできていた。
 ニトロは自ら脳裡に巡らせていた話題から逃れようと、ぎこちなく口を動かした。
「ここのスコーン、美味しい……」
 歯切れ悪いニトロの言葉に、ティディアとヴィタ、それにウェイトレスまで不思議そうな顔をする。
 ニトロは居心地悪さになんとなく身を引いたが、次を紡いだ。
「食べてみたら? 紅茶に合うよ」
「じゃ、それを。二人分」
 ティディアが即座に注文し、ウェイトレスも即座にオーダーを入力端末に打ち込んだ。
「……ニトロが勧めてくれるなんて、珍しいわね」
 ウェイトレスの背中をぼんやり見ながら、ティディアが言った。
 ニトロは宙映画面エア・モニターの雑誌に目を落とし、『映画』のページが開きっぱなしだったことに気づいた。もう雑誌はいいかとデータを小説に切り替える。
「別に、気まぐれだよ」
「ふぅん」
 ティディアはそれ以上の詮索をしてこなかった。
 少し意外に感じてニトロが目を向けると、ティディアは興味をくすぐられている眼を返してきた。
「ね、何を読んでるの?」
「えっと、『その丘で月を見ていた』。セスォリ・フェジヌの」
「……ふぅん」
 ティディアがなにやら面白そうに目尻をそばめる。少し、驚いているようでもあった。
「『ル・ヴィタ』ね。読み終えたら感想言い合わない?」
「『ル・ヴィタ』?」
「原題よ」
 彼女は悪戯っぽい顔をして、瞳で隣を指し示した。
「それ、曾お祖父さんの故郷の本」
「あ、そうなんだ」
 作者の項を開くとデータバンクから最新の情報が流れてきた。その中に、確かに聞いたことのある星名があった。
「じゃあ『ヴィタ』って、ここから? どういう意味?」
「数字の2、月、複合、など複数の意味があります。冠詞によって変わるのですが……」
 答えたのはヴィタだった。
「『ル・ヴィタ』は『満月』です。父の星の月はマリンブルーでしたので、わたくしミドルネームはヴィタと名付けられました」
「へえ」
 ヴィタの双眸の中で、二つのル・ヴィタが輝いている。
「綺麗な名前だね」
 ニトロの素直な感想に、ヴィタは嬉しそうだった。
 その横では二つの黒水晶が物欲しそうにニトロを見つめている。
「……なんだよ」
「私は?」
「適当だろ?」
「あら、つれない」
「本当のことじゃないか」
「全国のティナさんが怒るわよ。そんなこと言っちゃ」
「ティナが適当なんじゃない、お前の付けかた……」
 と、ウェイトレスがスコーンを運んできた。
 ニトロは危うく偽名だということを喋りそうになっていたのを止めて、ウェイトレスが二つのスコーンが乗った皿をティディアとヴィタの前に置き、ジャムの小皿と蜂蜜が入った小さなポットを添えた。
 ウェイトレスが会釈して、別の客に呼ばれて去るに合わせて、ニトロは言葉を動かした。
「お前の場合、届け出の綴りを間違えられたからだろ」
 実際は『ティ』から始まって『ア』で終われば咄嗟にも言いやすいだろうと、『ティア』とティディアが言ったのを『ティナ』とニトロが聞き違えたからだ。
「あ、このスコーン本当に美味しい」
「うっわ、聞いてねぇ」
 ティディアとヴィタは早速スコーンに舌鼓を打ち、紅茶を飲みながら雑談を始めている。
 見事なまでのすかし方にちょっと文句でも言いたかったが、まあいいとニトロは小説を読み始めた。
 そういえばと思い出し、ようやくカプチーノを口に運ぶ。泡の上に描かれた三日月と猫のイラストが崩れた。
「あ」
 ニトロが置いたカップを見て、なぜかティディアが嘆きを漏らした。
 何かと思えば、その目の先には崩れたカプチーノのイラストがあった。気に入っていたらしい。彼女は次に頼もうと決心したような様子で、店のメニューに目を通していた。

 小説を20ページほど読み進めたところで、ニトロは違和感に耐え切れなくなって顔を上げた。
 テーブルの向こうでは、ヴィタが何品目かのケーキを黙々と食べている。どうやらメニューにあるケーキ類を全品制覇する目論見もくろみのようだ。
 ティディアはカプチーノのイラストを携帯のカメラで撮ってからというもの、なにやらしきりに操作を繰り返している。写真を確認しているわけではないらしい。テーブルのモニターを使わないということは、おおっぴらにすることではないのだろう。しかし、何をしているのかその表情からは読み取れない。
「ん?」
 ふいに、視線を感じ取ったかティディアが顔を上げた。
 そしてニトロが自分を見ていることを知り、頬を緩ませる。
「何?」
「いや……なんか、大人しいなと思って」
 ニトロは答えをはぐらかそうかと思ったが、声をこもらせながらも、なんとなく素直に言った。
「いつもなら、こう……」
「あ、構ってほしいの?」
「違う」
 そこはきちんと否定して、彼は手持ち無沙汰な手を組んだ。
「いつもなら、色々アピールしてくるじゃないか」
 普通に考えれば、ティディアは魅力的な女だと思う。彼女は何げない仕草にも色気を忍ばせられるから、デートやら何やらを繰り返していれば落ちない男はいないとも思う。それは客観的に、そう思う。
「そうかな」
「そうだ」
 だから、ティディアの魅力は全てが罠だ。あらゆる動作あらゆる言葉にトラバサミが仕掛けられている。それは主観的に、そう確信している。
「それなのに、今日は……何も仕掛けてこないし、やけに大人しいなって」
「芍薬ちゃんに完敗しちゃったからね」
 ティディアはカップの底の冷めたカプチーノを見て、また同じものを注文した。ついでにヴィタもケーキを二つ追加する。持ち場に戻るウェイトレスに、ティディアは「絵は変えてね」と、言い置いた。
「……だから、大人しいって? 負けたくらいでへこむティ ナじゃないだろ」
「ニトロに会ったのは偶然。本当なら暇潰しで終わる一日だったからね、ラッキーだったけど……でもここでニトロに何かしたら芍薬ちゃんに筋が通らないじゃない?」
「だったら……俺を見つけてもスルーしても良かったんじゃないのか? いや、むしろしてくれ」
「やー、幸運の分はしっかり満喫させてもらうわよぉ。
 だけど、正々堂々負けたからには今日一日は芍薬ちゃんのご主人様をいじったりしないのよ」
「いじったりって、お前ねぇ」
 ニトロは苦笑した。
 ティディアの物言いにもだが、律儀に芍薬に筋を立てようとする態度にも。傍若無人な振る舞いもいとわぬくせに、妙なところで筋を通そうとする。
「それに暇潰しって、『仕事』がたっぷり残ってるんじゃないのか?」
「最近、ようやく人材が揃ってきてねー。楽ちんになってきてお姉さん嬉しい」
「楽ちんて。お姉さんて」
「だからニトロに割ける時間も増えてきてるの。お姉さん幸せ絶頂に向かってまっしぐらよ」
「おぅ、それは不吉なことだ」
 苦虫を噛み潰すニトロの顔に、ティディアは笑顔を崩さない。
 新しいカプチーノとケーキがやってきて、注文主の前にそっと置かれた。ティディアはカプチーノの泡に描かれている、幸せな寝顔の少女のイラストを写真に収めた。そしてヴィタのミルフィーユの味を聞き、少し分けてもらって食べては頬を緩ませる。
「…………」
 ニトロは機嫌良く『幸運』を満喫し続けるティディアをしばし眺め、やおらため息をついた。
「まあ、いいけどさ。いつもこんな感じだったら……」
 そこで口をつぐんで、ニトロは思案した。
 次のセリフを口にすることが益となるか害となるか。
「……だったら?」
 ティディアが促してくる。ヴィタの目が好奇心でいっそう輝いている。
 ニトロは、選んだ。
「別に、嫌がらないのに」
 そう言って、ニトロは、我ながら会心の一言だと思った。
 嫌がらない――そこに込めた色々な意味、そして様々なことを想像させる余白の広さ。相手の期待を誘うには十分な一言。しかし何をと明確にしてないから、例えどう取られても煙に巻くことができる。かといって嘘ではない以上、思わせぶりに相手を翻弄することもできる。
 ティディアとの付き合いで学んだこと、その一端を逆に放てたことに、ニトロは色めきたった。
 さあ、どう返してくる? ティディア。お前はお前が教えた話術に踊らされるのだ。
「嫌よ」
「あれ?」
 しかし、ティディアはさらりとかわしてきた。
「え? 何が嫌なの?」
 ティディアがこちらの誘いに食いついてこないなど、全く考えていなかった。
 愕然と聞き返したニトロに、ティディアは唇を尖らせて言う。
「そんなの、ちっとも面白おかしくないじゃない。私、ニトロとの愛は面白おかしく育みたいの」
「いや待て何だその恋愛観」
 痛烈なティディアの主張に軽い頭痛を覚えて、ニトロは眉間に浮かんだ皺を指で叩いた。
「オモシロオカシクって、そうでなきゃいけない理由はあるのか?」
「だから、ニトロとの愛は、面白おかしく育みたいの」
「……ただの願望?」
「いいえ、決定
 強烈なティディアの主張に重い頭痛を覚えて、ニトロは眉間に浮かんだ皺を拳骨で叩いた。
「あのなぁ」
 テーブルに突っ伏しそうな体を肘突き支えて、ニトロは嘆息混じりにティディアを軽く睨んだ。
「お前、俺がみんなになんて言われ出してるか知ってるか?」
「『身代わりヤギさん』」
「『クレイジー・プリンセスホールダー』とも」
「他にも色々あったわね。お祖母さん、データ出してくれる?」
「いや、フィナさん出さなくていいよ」
 ニトロは頭を抱えた。
 ぎろりと、ティディアに半眼を向けて、叫びつけたい衝動を押し込めて言う。
「知っているなら自重してくれ頼むから。お前の迷惑行為最近俺に一極集中してるじゃねぇか」
「えー? だって、私の愛はニトロだけに注ぎたいもの」
「ええい、お前の愛は迷惑そのものかっ」
「遠慮なく迷惑かけられるのが家族じゃない?」
「その家族観をとやかく言うつもりはないが、俺はお前の家族じゃないってことはここに声を大にして言っておきたい」
「じゃあニトロは『クレイジー・プリンセスの所業』が他人に向けばいいって言うのね?」
「……ん?」
 ティディアのセリフに、ニトロはえもいわれぬ悪寒を感じた。
 だが悪寒の正体が何なのかを悟る間もなく、ティディアが畳み掛けてくる。
「じゃあ最近派手なことしてなかったし、ニトロのためにしちゃおっかな」
「……え、っと。それ、脅迫?」
「違うわよ。ニトロの頼みを聞こうとしているだけ」
「……お?」
 おかしい。何だか妙なレトリックに陥っている。こんなはずではない。翻弄されるのは自分ではなかったはずだ。
「いや違う。俺は頼んでない」
「知っているなら自重してくれ頼むから。お前の迷惑行為最近俺に一極集中してるじゃねぇか。
 私、記憶力いいわよー」
「おお?」
「まぁ、『最近クレイジー・プリンセスが丸くなった』って失望の声もあるしね。もしかしたらそろそろ頃合かもしれないわね」
「しかしそれでは、ティディア姫がニトロ・ポルカト以外に構わなくなってからというもの、奇行が他に及ぶ心配がなくなったと上昇傾向にあった支持率が元に戻る可能性があります」
「あら、意外に国の大事なのかしら」
「影響はあります。とてもあります」
「ああ、でもねお祖母さん、大丈夫。きっとすぐに誰かさんが止めに入るわ。ええ止めてくれるわよ」
「そうですね。誰か様は自分の代わりに誰かが人身御供になるのを黙ってみていられる性分ではないでしょうから」
「おおお?」
 ヴィタまで加わって、芝居がかった台詞回しで退路を綺麗に潰してくる。
 ニトロの心は、もはや寒風吹きすさぶ荒野の中にあった。行くも地獄、帰るも地獄。そんな状況がいつの間にか敷設されている。
 呆然とおののくニトロの様子に、ティディアとヴィタは申し合わせたようにぴたりと口を閉じた。
「で?」
 そして二人同時に振り返り、同時にニトロに問いかける。
「おおおお?」
 ニトロの顔面は絶望的なまでに引きつっていた。
 絶対的に有利な状況で必勝の先手を打ったはずなのに。何故か今、絶対的に不利な状況で重大な選択を強いられている。
 誰かアドバイザーがいれば、その言い分をまともに受けたら相手の思うつぼだとニトロを諭していたかもしれないが、あいにく孤軍のニトロはまともに考え、考えあぐねて脂汗が額に浮かんだ。
 と、突然、ティディアとヴィタがくすくすと笑い出した。
「ニトロのそんなところが大好き」
 おかしそうにティディアが言う。
「ごめんね。ちょっと調子に乗っちゃった」
「いや……でも、えーと?」
「ああ、もう気にしないでいいわよ。ニトロのためにやるわけないじゃない? 私の趣味なんだから」
「――あ」
 そういやそうだ。そもそも自分のためにバカなことをするというのなら、これまでにクレイジー・プリンセスの被害がありうるはずもない。あれは確実にティディアの彼女自身のための道楽だ。
(てんで掌の上かぁ……)
 はたと平静を取り戻させられて、ニトロは天井を仰いでため息をついた。
 まだティディアに口で勝つのは難しいようだ。それを、芍薬の勝ちで固められた場で再確認できただけでもよしとしよう。別の時では洒落にならなかったかもしれないのだから。
「あのぉ……」
 ふいに横手から声をかけられて、ニトロが何の用だろうとそちらに振り向くと、おずおずとウェイトレスが近寄ってきていた。
(……?)
 おずおずと?
 ウェイトレスの雰囲気も先ほどまでとはまるで違っていた。常連に対する親しみが消え、何かご機嫌伺いをするような、よそよそしさと遠慮なさが同居しているような、最近になって良く見るようになったものがそこにあった。
(あー、しまった)
 ここに至って、大声で身分を表す会話をしてしまっていたことに気がつく。
 ぼんやりティディア姫に似ている女と、かなりニトロ・ポルカトだろって少年が揃ってあれだけ核心そのものをぎゃあぎゃあわめいていれば、変装も偽名もへったくれもない。
 ウェイトレスの手にはカード型のカメラが握られていた。
 ティディアが詫びを入れるような眼を向けてくる。彼女がこれから不機嫌さをウェイトレスにぶつけようとする気配が感じられた。ヴィタが腰を浮かしているのを見れば、それが間違いないと確信できる。
(……う〜ん)
 ニトロは、ちょっと困った。
 『お忍びティディアは安全』という言葉がある。クレイジー・プリンセスと恐れられる彼女の一面が、これまで『お忍び』の最中に出たことは一度たりとてないのだ。
 もともとサービス精神が旺盛なのか好感度のためなのかは知らないが、そういう時は、ただ親しみある王女様であるばかり。
 変装がばれて群がってきたファンらを邪険にすることはなく、逸話の中には同じレストランに居合わせた皆に奢って即興パーティーを開いたというものもある。
 そんな彼女がウェイトレスをあしらおうとしているのは、自分を悪役にしてとりあえずこの場の収束を得るつもりなのだろう。
 無用の混乱を避ける。
 芍薬への筋を通すにはそれしかないはずだから。
(借りを作るのはしゃくだなぁ)
 今回は自分にもミスがある。
 ニトロは彼女が行動を起こすのに先んじて、受け入れることで彼女を制することにした。
「どっちと写りたいの?」
 ウェイトレスの顔が輝いた。
 ティディアは、驚いているようだった。
「できれば、どちらとも」
ティディア、いい?」
「ん、いいわよ」
 ティディアはどこか愉快気にニトロを見つめていた。ニトロはなんだよと言いたげに眉を動かして、それからウェイトレスに聞いた。
「えーっと? どうしようか。順番に撮る? それとも何か台でもあれば……」
わたくしが撮りましょう」
 ティディアの目配せに応じて、ヴィタが立ち上がる。ウェイトレスは喜びの顔で彼女にカメラを手渡すと、ティディアには近づきがたいのか、ニトロ寄りに立った。
「やっぱり、ニトロ君だったんだ」
 ヴィタがカメラの構造を確認している間に、ウェイトレスがそっとニトロに言う。
「嘘ついててごめんね」
 ウェイトレスは軽く首を振った。
「分かってる。大変なんでしょ?」
 ニトロは他の客や、どこから現れたのかも分からない人々が行列を作り始めているのに目をやって苦笑した。
 見れば行列の傍らで、いつもは厨房に引っ込んでいる店主が『ニトロ・ポルカト推薦のスコーン!』などと置き看板の板晶画面ボードスクリーンに赤文字極太フォントで表示させている。
「うん、結構大変かな」
 気を抜けば崩れ出しそうな顔に笑みを乗せ、カメラを構えたヴィタに向き直る。
 あまり気乗りはしていないようではありながら、見事な笑顔を生み出すティディアが、ニトロの視界の隅に映った。
「では皆様参ります。1+1は?」

 時を追うに連れてルローシャットカフェは混乱に包まれていき、さすがに押し寄せてくるファンだか野次馬だか賑やかしだか分からない人数を捌ききれなくなったニトロは、ティディアと共にヴィタに抱えられて逃げだした。
 ニトロが驚愕と戸惑いに悲鳴を上げるのをよそに、ヴィタは非常階段を恐ろしい速度で駆け降り追っ手を振り切って、
「主様、早ク!」
 地下駐車場に逃げ込むなり非常階段口に芍薬が横付けてきた車にニトロとティディアは投げ込まれ、最後にヴィタも飛び乗るや、アクセルフルスロットルにビルを後にした。
 そして――
 ニトロがようやく安堵の息をつけたのは、ティディアとヴィタを王城の近くで降ろし、家に帰ってからだった。
 ベッドに倒れこむと、マットから洗い立ての匂いがした。ティディアの突入の後片付けに業者が来たそうだから、そのためだろう。
「はあ……」
 深いため息をつく。
 頭の中はルローシャットカフェでの出来事で占められている。
 こうなってしまったら、もうおいそれとあの店に行くことはできない。憩いの場を一つ失ってしまった寂しさが、胸にしくしくと染み渡る。
 それに――
「まさか、今日の騒ぎ『デート』とかって言われないよな……」
 独り言ともらしたつぶやきに、芍薬が応えた。
「イクツカノニュースデ言ワレテルヨ」
「え、もう?」
「デモ、埋モレルンジャナイカナ」
「……何か大きな事件でもあった?」
「事件、ニハ違イナイネ」
「何?」
「王女様トソノ執事ガ、城ノ門番ニ逮捕サレタッテサ」
「……何?」
 体を起こすと、壁掛けのテレビモニターに夕方のニュースが映った。
 『速報! 新人門番、ティディア姫を誤認逮捕!!』とテロップが表示されている。流れている映像は門に据えられている監視カメラのもののようだ。変装したままのティディアが門番と派手に口論している。傍らでヴィタはあくびを一つ。
「何やってんだか……」
 残念ながらあの門番。明日にも解雇か、解雇より酷い左遷だろう。
(……態度が一定しないのも、あいつの強みかもな)
 ふんぞり返って門番と口論するティディアと、ルローシャットカフェでのティディアの姿を重ね合わせて、ニトロはふとそう思った。
 やけに大人しい時があれば、異常にテンション高く暴走する時もある。気遣いできるくせに、傍若無人。
 どちらが本当の姿というわけではない。どちらもティディアだ。気まぐれで、しかし状況や目的に合わせて様々な一面を使い分けてくる。使い分けられて、振り回される。
(ほーんと、厄介な奴)
 ニトロはため息を吐きながらまた体を倒した。呼応するようにテレビが消え、無音が部屋に響き渡る。
「ああ……それにしても疲れた」
「ソリャ、アンナ下手打ッタラネ」
「?」
 唐突な芍薬のセリフが何のことを言っているのか、ニトロは解らなかった。
「何が?」
「バカ姫ニ仕掛ケルナンテ、主様ラシクナイヨ」
 そこで芍薬が何を言っているのかが解った。彼は寝たまま小首を傾げ、
「聞いてたの?」
「聞コエテタ」
「聞こえてた? 芍薬に回線つなげてたっけ?」
「アクセスシテキタジャナイカ」
「アクセスして……」
 言われて、あっとニトロは気がついた。
 そういえばティディアとヴィタが現れた時、芍薬にアクセスしようとしていた。ショートカットキーを押したつもりはなかったが、もしかしたら、何かの拍子で押し込んでいたのかもしれない。
「俺も……失敗したと思ってるよ」
 ニトロは苦笑いするしかなかった。
「慣れないことはするもんじゃないね」
「主様ニハ向イテナイヨ。アアイウノハ」
「そうかもなー。
 でも、だったらどうやってティディアに対抗すればいいだろう」
「対抗デキルトシタラ、ツッコミ攻撃シカナイダロウネ」
「それじゃあいつを喜ばせるだけだよ。他にこう、有効なのは……ないよなぁ」
「頑張レ」
「……うん」
 ちょっと泣きたくなった。
「でもさ、聞いてたんなら助けてくれても良かったじゃないか」
 ふと気づいて、芍薬に恨めしく言う。
 すると芍薬は心なしか不機嫌な声を返してきた。
「ダッテ、オ楽シソウダッタカラネ」
 ニトロは、ちょっと、嫌な予感がした。
 あまり気に留めていなかったが、さっきから芍薬の言葉に刺々しさがある。
「あの……芍薬?」
「ナンダイ?」
「もしかして、怒ってる?」
「怒ッチャナイヨ。拗ネテルンダ」
(……あ〜)
 そりゃ、芍薬から見れば面白くないのも当然だ。
 ティディアに勝ったはずなのに、なぜか結局ティディアが良い思いをしている。守ったはずの主はそのティディアとカフェで過ごしてその上楽しませて、心労を得たのだって自ら仕掛けて自爆したからだ。
 これでは、せっせとニトロをティディアの魔の手から守るべく働いていた芍薬は報われまい。
「いや、でもさ芍薬――」
 慌ててニトロは体を起こした。引きつる笑顔を振りまき身振り手振りも交えて芍薬を慰める。
 芍薬は根に持つタイプじゃないのがせめてもの幸いだけど、これは機嫌を直してもらうに少しかかりそうだ。
 今日は何かと調子が悪い。一つ一つの繋がりが絶妙に悪い方向にずれている。なんていうか、こう……
 そうだ、
(厄日だ)
 どうせ今夜は眠りすら平穏にすまないだろう。悪い夢にうなされるのだろう。
(そしたら芍薬、起こしてくれるかなぁ)
 ニトロはそんなことを考えながら、つんとして応答しない芍薬に話しかけ続けた。

 夕闇に染まる部屋の中、そしてニトロは次第に熱を帯びてきて。
 彼が気づかぬ裏で、空調は涼やかな空気を送り始めた。

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