部屋の中には必要最低限の家具がシンプルに置かれている。
大きなものはベッドぐらい。服はクローゼットとボックスケースにしまってある。
冷蔵庫は部屋に据え置いてあったものを使っているし、調理器具はオールマイティレンジに万能包丁とフライパン、それに小さいのと中くらいの鍋が一つずつあれば事足りる。
食事を取るのは半透明の天板がちょっとお洒落なテーブル。これは四本の足が取り外しできるからいいそうだ。
あと目立つものといえば……壁掛けのテレビモニターと、A.I.が遠隔操作する小型の
「毎度思うけど、いくらなんでも味気ないわよねー」
彼女の足元には砕けたガラスが散らばっていた。特殊な加工がされたもので、破片はどれもキューブ状になっている。防音に優れ、割れても危険性の少ない、やんちゃなお子様がいる家庭に大好評な窓ガラスの成れの果てだった。
「そう思わない? 芍薬ちゃん」
独り言のように誰もいない部屋へ言葉を投げると、呆れ声がどこからともなく流れた。
「誰ノセイダト思ッテルンダイ」
「ニトロの趣味でしょ?」
ティディアは口を弓なりにしている。
「人ガ悪イネ、相変ワラズ。コリャ
「あ、それちょっと酷い」
ティディアはゴシックドレスのレースに引っかかっていたガラス片を叩き落としつつ、一方の手で器用に泣き真似をしてみせた。
鼻であしらう音が壁裏のスピーカーを揺らした。
「主様、早クモ引越シ考エテルンダ。アンタノセイダカラ費用負担シテモラウヨ」
「行き先はちゃんと教えてね」
「拒否」
ニトロのA.I.の即答に、ティディアは眉根を寄せた。
「ああ、メルトンちゃんが恋しいわ」
「ソリャ残念ダッタネ」
割れた窓から涼風が吹き込んで、カーテンが揺れた。その窓の外、ベランダの落下防止柵の向こうで一本のロープがだらしなく揺れている。ティディアが部屋に『突入』してくる際に使ったザイルだった。
ティディアは、無念の吐息をついた。
朝一番、窓ガラスを蹴破ってゴシックドレスに身を包んだお姫様が特殊部隊ばりに突入してきたら、ニトロはどんな反応をするだろう。
あんな顔か、こんな反応か、そんなツッコミをしてくれるか。しかし思い描いた夢の全ては、ただの妄想と成り果てた。
ここまで見事に完敗したのは初めてだった。
久しぶりの休日、昨夜は期待に胸が高鳴りなかなか寝付けなかったというのに、とんだ肩透かしを食らったものだ。
それもこれも、こちらの行動の予測精度を上げてきたA.I.のせい。ニトロはもともと手強い相手だというのに、これからはさらに手がかかるだろう。
「じゃあ、代わりにニトロがどこに行ったか教えてくれない?」
恨みがましいティディアに、勝ち誇った声で芍薬は答えた。
「ハラキリ殿ノ家」
ティディアは鼻で笑った。見え透いた嘘だ。
「まあ、いいわ」
言って、携帯電話を取り出す。ニトロと同じ『電話型』の同型の色違いだった。彼女は応答した執事に一言二言命じると通話を切った。
「攻略する相手が増えたのは、いいことだし」
芍薬は王女の言葉を負け惜しみと捉えたが、すぐに過去の彼女に関するデータからそれは間違いなく本心だと改めた。カメラに映るティディアの顔は、楽しみが増えたことを明らかに喜んでいる。
「ソウ思イ通リニハサセナイヨ」
「上等上等。今日のところは負けを認めてあげる」
ティディアは鼻歌混じりにベランダに出ると、柵から身を乗り出しザイルを掴んだ。一・二度引いて安全を確かめてからひょいと宙に飛び出す。
「それじゃあ、またね。芍薬ちゃん」
にこやかに手を振って、ザイルを伝って下降していくティディア。近場で待機していたらしいこちらへ向かってくる
手回しのいいことだ。
芍薬は自分が依頼しようとしていた修理業者へのアクセスをキャンセルし、王家へ送りつけようとしていた損害請求メールを廃棄した。
そして、思う。
「本当ニ――
――――厄介ナ相手ニ目ヲツケラレタモンダネ、主様ハ」
ダッシュボードの画面で、やれやれと頭を振る芍薬の
「それは言わないで。いやもうマジで心底そう思ってるんだから」
「アアア、御免。余計ナコト言ッタ、御免ヨゥ」
車はまだ交通量も少ない幹線道路を、郊外へ向けてのんびりと進んでいた。
芍薬を映し出すモニターの隅には朝の情報番組が流されている。そこで先ほど、ティディアが本日会談する予定だった相手に、『より専門的に』と妹のミリュウ王女と弟のパトネト王子を王家代表として派遣したことを速報で聞いた。
相手側からはその変更を歓迎する旨が即座に発表されている。どうやらティディアが来ることはすなわち協議は平行線、妹弟が来ることは好転の局面であったらしい。
この件に関して専門家がこれで〜〜の研究が〜〜の株価がと説明しているが、正直どうでもいい。
この件に関してニトロが重大な関心を寄せるのは、ただティディアのスケジュールが変更された、その一点のみだ。
王女としての公務があるティディアの動向は、王家広報が公表しているスケジュールである程度把握できる。だがそのスケジュールは絶対ではなく、たまにこういう『アクシデント』が起こる。
そしてそのアクシデントを、ニトロは最も恐れていた。
いやもうホントに、サイコキラーに一目惚れでもされた方がなんぼかマシだと思うくらい、恐れていた。
本日のティディアの予定はその会談一つだったから、変更によって今日は彼女にとって久しぶりの全日休暇となる。
それはつまり、ティディアが突然デートに誘いに来るということだ。
会談に関する変更はついさっきまで報道に乗っていなかったから、当然ニトロがそれを承知する術はなかった。
だが、会談相手の身辺に探りを忍ばせていた芍薬の、ティディアが王家代表を変更してくることを確信した進言で夜明け前に家を脱け出ることにし、いつもは朝食を頬張っている時刻に決行されたティディアの強襲から逃れることに成功した。
これまでは。
ティディアのペースでいいようにやられていた。
だが芍薬が彼女との戦い方を学習した今となっては、脅威は半減、いや今日の勝利でそれ以下に減った。
それは素晴らしく愉快なことであった。
(にしても、あいつもどんどんエスカレートしていくな)
はじめの頃は宅配業者を装ったり泥棒に扮してきたりとまだ可愛いものだったが、とうとう窓を蹴り破って突入とは……こうなると本気で引越しを考えた方がいいかもしれない。
「でも、芍薬のお陰でようやく後手後手じゃなくなった。感謝してるよ」
「……イヤァ。勿体無イ言葉、痛ミ入ル」
顔を背ける芍薬の耳は赤い。頬の緩みは隠しきれず、嬉しそうだった。
ニトロはシートのリクライニングを倒し、安堵を満喫するように伸びをした。
モニターの情報番組は映画のランキングを紹介し始めている。ニトロはそれを消すように芍薬に頼んだ。
どうせランキングトップは3週連続で『あの映画』だ。忌々しい。
『ラジオ出演』から二ヶ月。とうとう封切られたティディア姫参加映画、その公開初日の舞台挨拶に引きずり出されたことは未だ悪夢に見る。
こっちが緊張して何も言えないでいることを良いことに、ティディアが好き勝手に『ロマンス』を話し、お陰でそこで完璧にニトロ・ポルカトが『クレイジー・プリンセスの恋人』だと定着してしまった。
何とか事態を収拾しようとティディアをパイルドライバーで黙らせたものの、それすら照れ隠しとか言われるし。
「デ、主様。今日ハコレカラドウスルンダイ?」
ニトロの前のハンドルは固定されている。駆動制御は全て芍薬に委ねていた。
「学校ニ行ク?」
この車は、つい先週ニトロが購入した小型の
これまで車の必要性を感じてはいながら、そんな高額なものを買うには踏み切れずにいたところ、映画の公開を機に身辺がまた騒がしくなったために思い切って手に入れたものだった。
胸一杯に息を吸うと、新車特有の匂いが嗅覚を占領する。
ニトロは肺を膨らませた愛車の香りを深いため息に変え、ぼやいた。
「学校かぁ。行っても面倒なだけだしなぁ」
「今ヤ映画スターダモンネ」
ニトロは再びため息をついた。
「ハラキリはまだだったよね」
「御意。マダ『プロモーション』ニ同行中。帰星予定ハチョウド二週間後」
「ずるいよなー」
ハラキリは映画公開後の学校での混乱を見越して
もう少しすれば四十五日間の前期長期休暇に入ることがニトロの救いだが、一番大変な時期を回避し、さらにプロモーションへの同行を『王女の命令』として公認欠席にした上で、長期休暇に入ってから帰ってくるよう仕組んだクラスメートの
それも一度彼は誘ってくれていたのに、深く考えもせず
「今日はもう、このままサボるよ」
「御意」
芍薬が手元に電話を現し、通話を始めた。受話器からはフキダシが現れて、そこには
何をしているのかが分かりやすいアクション。自宅から学校へ通知するように手配しているのだ。
メルトンを育てている時は必要と思っていなかったが、芍薬が来てからは面白いと思うようになった。愛嬌があるし、それに見ていて飽きない。今度家に帰ったら、メルトンにも覚えさせようか。両親も気に入るだろう。
ふいに、電話をかけている芍薬の顔の横に『気づきの符号』が表れた。
車が減速を始める。見ると、猫の親子連れが勇敢にも悠々と道路を横切っていた。それがこちらの存在に気づき、慌てて走り出す。
猫らが道路を渡りきったところで加速が始まり、そこで芍薬は電話を消した。
「イツモ通リ、学校ニハ神経性胃炎デ連絡シタヨ」
「……うん、ありがとう」
なんとなく、ニトロは胃の辺りをさすった。
主人の顔が浮かないのを見て、芍薬が明るい声で提案してくる。
「ドライブデモシヨウカ、主様。コノママ
「いいね、それ。そうしよう。その後は……ルローシャットカフェにでも行こうかな」
「承諾」
ウィンカーが点き、進路が変わる。車の鼻がちょうど東へ向いて、昇りかけの太陽が正面に来て鋭く目を刺してくる。
直射光を和らげるために、何を言わずとも芍薬が窓に偏光機能をかけてくれる。
スピーカーからはニトロ選曲のミュージックボックスが流れ出した。
快適な光とリズムに身を抱かれて、ニトロはまどろむように瞼を落とした。
晴れ渡った空の下、コバルトに輝く
ケルゲ公園の程近くをかすめ、シェルリントン・タワーのある
黒いレンガに外壁を固め、這い登るツタをそのまま身に纏った、いかにも古めかしいビル。
レンガはひび割れ一見数百年前に建造されたものに見えるが、実際は数年前に建てられた、当時は物珍しいその『演出』に一躍有名なスポットとなったビルだった。
とはいえビジネスの新旧勝敗立ち代り、栄枯盛衰激しいこの王都で見た目だけで生き残れる寿命などたかが知れたもので、一年もせぬうちにこのビルは外見に相応しく『過去のもの』となった。
一時期はテナントの7割も消え廃ビルとなりかかったこともあったが、『隠れ家的な』というテーマを再発見してからは存在感を取り戻し、今は小ぢんまりとした飲食店を中心に、人目を気にせず穏やかな時間を過ごせる空間をビル全体で演出している。
ニトロがここにあるルローシャットカフェを気に入ったのも、そんな『人目を気にせず』という空間演出が第一の理由にあった。
「それじゃ、芍薬も自由にしていて。何かあったら連絡するから」
「承諾。主様、ゴユックリ」
地下駐車場で車を降りたニトロは、まっすぐ非常階段に向かった。エレベーターは逃げ場がない。それは有名になってすぐ身に染みたことだった。
ルローシャットカフェは最上階にあった。薄暗い照明と非常灯に浮かぶ陰気臭い非常階段を昇り、ニトロは途中書店のある階に立ち寄った。書店に置かれている見本誌閲覧専用端末を覗き、適当に雑誌と小説を一冊ずつ選んで、そのデータを携帯電話のメモリーに
そしてまた非常階段を昇り、最上階に出て、出たすぐ脇にオープンカフェ風の店を開いているルローシャットカフェに入った。フロアは全体が間接照明で薄暗く照らされているから、カフェはさながら黄昏の街角にある風だ。入口脇の置き看板の
「いらっしゃいませ」
よく見るアルバイトのウェイトレスが、ニトロに気づいて赤のグラデーションに染めた頭を下げた。
「お好きな席へどうぞ」
場の空気をかき混ぜないよう押さえられた声で店内を示す。店内は十数個の丸いテーブルが並び、その数個にバランスよくばらけて客が座っている。互いに干渉しあわないという宣言をしているようだった。
ニトロはウェイトレスに軽く会釈して、店内の最外、非常階段口に最も近く、店と外を仕切る小さな柵を背にする席に向かった。
ウェイトレスはニトロがその付近にいつも座ることを知っていたから、そこへ冷たい水の入ったグラスをすぐに持ってきてくれた。
彼女には、以前『あのニトロ』かと問われたことがあった。
だが『あのニトロ』はメディアの中で何割か増しに格好良く撮られているし、友人に『天職は探偵かエキストラ』だと言われたほど目立たぬ風体をしているから、一度否定すると意外にすんなり受け入れてくれた。
「カプチーノと、シフォンケーキ」
ウェイトレスにメニューを見ることもなく注文して、ニトロはテーブルの脇からケーブルを引き出し、それを携帯電話に接続した。
テーブルの上に
その中から先ほど購入した雑誌を選んで画面に出した。
「お待たせいたしました」
『映画』の監督の他星でのインタビュー風景を伝える記事を読んでいる時、ウェイトレスがカプチーノとケーキを持ってきた。できる限り音を立てないようにテーブルに置かれる。カプチーノの泡には三日月に猫が座っているイラストが描かれ、シフォンケーキにはなめらかな生クリームがかかっていた。
「その映画、面白いよね」
と、ウェイトレスが開かれているページを見て、馴染みの客に気軽な言葉で話しかけた。
ニトロは条件反射で引きつりそうになる頬をかろうじて抑え、愛想笑いを浮かべた。
「ええ。俺はこの役者が気に入っちゃって」
映画のワンシーンを切り出した写真の中のハラキリを指差すと、ウェイトレスはその隣に目線をやった。
「わたしはやっぱり主役のニトロ・ポルカトかな」
「あ、ああ、そうですか?」
「最後のアクション、スタントを使わなかったって。凄いよね、あんなに迫力ある戦い。あれを観たらCGは物足りなくなっちゃった」
「俺の友達もそう言ってました。よくやったもんだって」
いい加減、愛想笑いが決壊しそうだった。これ以上何か誉められたら、本格的にまずい。ただでさえ一度本人かと疑われているのに、ここで照れれば致命的だ。
「それじゃ、ゆっくりしていってね」
だが幸いにも、ウェイトレスはきりの良いところで会話を終えてくれた。営業用ではない親しみが込められた微笑みを残し、仕事に戻っていく。
「…………」
ニトロは安堵の吐息を懐に吐き出した。
手に汗握った。知らずに背筋を強張らせていた力を抜く。
「あらぁ、モテモテじゃーん」
その時、背後からかけられたその声に、ニトロの背筋は筋繊維をブッ千切らんばかりに硬直した。