7.ニトロの悲劇

『はい、カーーーーットォ!』
 それが、ニトロの頭の中を真っ白にした言葉だった。
 それからニトロはしばらく理解力を欠乏していたが、崩れ落ちるティディアに押し倒される形で尻餅をついたとき、ようやく事態を飲み込んだ。
 だが、何が起こっているのかが今もって解らない。
 はじめに、ティディアの体が力を失ってもたれてきた。
 その時、なんか知らんが終了を告げているらしい大きな声が玉座の間に響き渡った。
 その直後、硬化したゲルで固められた大扉を爆破して数十数人の一団が突入してきた。
 城の兵士の擬装と疑うまでもなく、それとはまるで違う連中だった。
 誰もがにこやかで、誰もが達成感に満ちた顔をして、その皆が拍手しながらまさに今、
「お疲れ様ですー」
 などと口々に言ってくる。
「……はい?」
 状況についていけず、ニトロはうめいた。目も点になる。王女が刺されて死に瀕しているというのに、これは一体何なのだ?
「はい、ニトロさん、失礼しまーす」
 呆気に取られている彼の上でぐったりとしているティディアを、白衣を着てキラキラとした笑顔を振りまく二人の女性が息を合わせて抱え上げ、男性四人がかりで運ばれてきたベッドに横たえた。
「はい、ニトロさん。じっとしていて下さいねー」
 もう一人、白衣の女性が現れた。女性はニトロの手と服についた返り血を消毒液の臭いがする濡れタオルで綺麗に拭うと、何を思ったか手にはめていたゴム手袋を外して突然、傷口も真新しいニトロの右脇に手を当てた。
 激痛にニトロは悲鳴を上げた。痛みが自分の傷がけして小さくないことを教えてくる。
 しかしニトロが身を逸らすのにも構わず、女性は手を強く押し付けると気合を入れて叫んだ。
「治れ!」
「いや治れと言われて、うわ治った!」
 ニトロは驚愕した。しげしげと見つめても、脇には傷の跡形もない。
 見れば、女性は尖耳人エルフカインドであった。ということは、これが噂に聞く尖耳人エルフカインドの超能力か。
「初めて見た……」
 ニトロの感嘆に女性は微笑を返し、他の二人と合流した。そして揃って手を挙げて合唱する。
「ピコポット医療はじめっまーす」
 ベッドを半円の蓋が覆い、中に銀色の霧が立ち込める。これは、ニトロも見たことがあった。緊急医療器具の最高峰『ピコポットXYX』だ。素子生命ナノマシンによる疑似再生医療フォールス・リジェを用いた延命装置と高度な活性治療ヴァイタライジング機器を備え、脳の損傷に対応するのはもちろん、必要な生体データがあれば臓器を失った状態でも救命できると宣伝されていた。
 ティディアに与えられた傷は大きく、明らかに致命傷であるのは素人ニトロでも判る。彼女が倒れこんできたはずみでナイフはさらに深く腹腔をえぐった。だがそれでも、目の前にある医療器具にとっては取るに足らぬ刺傷であろう。
 唖然としているうちに治療は進み、ニトロははたと我に返った。
「……ええ?」
 ということは、ティディアが回復するということではないか! のんきに構えている場合ではない。
「ハラキリ!?」
 緊急事態にパートナーへと振り向いて、振り向いた先の光景にニトロは派手に転んだ。
 ハラキリは優雅にトロピカルジュースを飲みながら、マッサージを受けていた。
「おぉまぁえぇはぁ」
 ニトロは神速ダッシュで間を詰め、ハラキリにマッサージを施していた男性を蹴り飛ばした。返す足でハラキリの頭を踏んでから、胸ぐら掴んで持ち上げる。
「何をなごんでいやがる」
「いやあ、拙者もこれは予想外で何が何やらなもので。状況を見るにどうも何かの撮影していたようなんですが」
「は? 撮影?」
「ええ、カットとか言っていたでしょう?」
投薬メディシンクローラー除去完りょー。アンチテラチアーゼ入りまーす」
 背後から聞こえてきた女性のコーラスに、ニトロは不吉を覚えた。
「アンチテラチアーゼ?」
「強力な麻酔を解く薬ですよ」
投薬メディシンクローラー……って何だったっけ?」
「投薬用素子生命ナノマシンです。ほら、心臓病の方とかが発作に備えて体内に常駐させている」
「……ってことは?」
「『覚醒』開始しまーす」
「ということでしょうねえ」
 ハラキリは一点を見つめている。恐る恐る、ニトロは振り向いた。
「あーーーっはっはぁ!」
 案の定、ベッドの上で腰に手を当てて胸を張っている王女がいた。腹部から大腿にかけて白装束は生々しい暗赤色に染まっている。そこに死闘の証拠がありありと顕示されているのに、真上の顔はこの上なく愉快気だった。
「もう少し麻酔が効くの遅かったらショック死ものだったわー! ア、痛たた。まだちょっとひきつるな。
 あ、あなた達は下がっていいわよ。もう準備もできてるだろうから、『犬』達と先に打ち上げやっていて」
「いや、もう何かどうでもいいから、説明してくれませんかね?」
 王女を殺したと思ったらいきなり現れた一団に祝福されてあげくかたきは蘇ったうえ打ち上げと言って盛り上がりながら乱入者たちが帰っていく。
 あんまりなことに目が回り出したニトロの問いかけに、ティディアはにんまりと笑った。
「だからね、全部映画の撮影だったのよ」
「……?」
 ニトロは彼女が何を言っているのかいまいち理解できず、ひどく眉間に皺寄せてもう一度訊ねた。
「えと? 何だって?」
「え・い・が・の、撮影だったのよ」
 パチンとティディアが指を鳴らす。するとニトロ達に程近い壁にスクリーンが現れた。映像が投射され、3・2・1と映画の予告編が流れ出す。
「……うっわー」
 ニトロはうめいた。
「いつ撮っていたんですか? うちのセキュリティ、かなりのものなんですけど……」
「用意できるところじゃ隠しカメラをね。それ以外は最新型のモスキート生体機械ゴーレム偵察機よ。実用試験も兼ねてたんだけど思ったよりうまく撮れてわりとビックリ」
 ティディアはひどく上機嫌に種明かしをする。逆にハラキリは、腕を組んで渋い顔をした。
「あー、つまり開発中のものですか。それで撫子も韋駄天も検出できなかったんですね。
 確か高速で一匹潰しましたけど、もしやそれも?」
「あれは激痛」
「全く気がつきませんでしたよ。これは良い勉強になりました。
 いや、しかし綺麗に撮れていますねぇ。よくもまぁこれまでの流れを一つのお話に仕立て上げたものですわ」
「凄いでしょう。でも、君に潰されたのは本当に痛かったわ。そこからが切れちゃったし。もし録画してたらくれない?」
「申し訳ありませんが、ご期待にはそえませんね」
「そう。やっぱりそこら辺は編集でごまかすしかないかぁ」
「変装した後のニトロ君なら町中まちなかやらタクシーやらの監視カメラに写ってると思いますよ」
「それは回収済み。映像切れたときは企画消滅も覚悟してたからもう、会見場にニトロが来たときは嬉しかったー。さすがにそこまでしてくる度胸があるとは思ってなかったから。惚れ直しちゃった」
「企画って。もしかして、実際に刺されることも企画の内でしたか?」
「楽しかったわ♪」
「変態ですな」
「……うっわー」
 どういう神経をしているのか、平然とティディアと会話するハラキリの傍らで、ニトロはうめくことしかできなかった。
 スクリーンに流れる映像は、確かに覚えのある光景ばかりだった。中には見知らぬものもあるが、ほとんどは学校の終業式の日から、あのティディアに呼び出された時からニトロが遭遇した出来事ばかりだった。それらが見事に都合良く編集され、実に面白そうな映画予告と仕上がっている。
 最後に『近日公開』とテロップが入ってスクリーンが消える。
「お疲れ様。無事にクランクアップできたわ」
「……いや待て」
 ニトロの胸に怒りの炎が、激しい憎悪が蘇った。
「映画撮影のために俺の親を殺したのか!?」
「生きてるわよ」
 ニトロのハートは瞬時に消火された。灰燼かいじんが脳裏に、降り積もった。
「? ? ?」
 訳が解らず、ニトロは指をくわえてキョロキョロと周りを見回した。かろうじて生き残っていた理性が、彼の声帯を弱々しく震わせた。
「え?」
「あなたの御両親、生きているわよ。今頃ポンカタスで旅行を楽しんでいるわ」
 ポンカタスとは、上流階級の連中がよく行く庶民憧れのリゾート星だ。
「え? どゆこと?」
「だから、偽装死なのよ。警察のデータも、役所の死亡確認も」
 ケタケタ笑うティディア。相当に、ニトロの反応が面白いらしい。
「……嘘だ!」
 やおら、ニトロは叫んだ。
「お前の言うことなんて信じられるか!」
「証拠見せてあげる」
 と、ティディアが指を鳴らすとまたスクリーンが現れ、再び映像が投射された。
 ざざーん、ざざーん、と波の音がスピーカーを通ってくる。そこには仲むつまじい男女が映っている。先に女性がカメラに気づいた。
「……あ。やっほーい。ニトロちゃん、元気にやってるー?」
 ひたすらにノーテンキな声が、ニトロの精神に危機的なショックを与えた。
「ティディアちゃんが素敵な旅行をプレゼントしてくれたのよー。抽選に当たったんだって。いいでしょー」
 それは、確かに母だった。夕陽輝く海岸、白浜の上に横たわりながら、水着姿でこちらに手を振っている。
「いいだろー」
 とは、母の肩に手をかけている男。サングラスをかけてはいるが、その何も考えていないような面は見間違えようもない。父だ。
「こっちは母さんとラブラブで愉快快適なんだぞー」
「やだー。お父さんったらー」
 ニトロは無言のままハラキリのホルスターからレーザーガンを奪うと、スクリーンに向かって引き金を引きまくった。
 無論、レーザーがスクリーンの中の人物に当たることはない。光線は全て母と父を捉えていたが、それは結局スクリーンを貫き、後ろの壁を破壊しただけだった。ボロボロになったスクリーンにはもう何が映っているのか判らない。だが音声は元気だ。
「あー、ひっどーいぃ。ニトロちゃんがお母さんにレーザー撃ったー」
「こらニトロ! お母さんに何をする!」
「やかましい! てめえらなんて両親なんかじゃないやい!」
 ニトロは涙目で、ベッドに腰掛けているティディアに言った。
「切れ!」
「了〜解」
 玉座の間にはポルカト夫妻の抗議の声が溢れていたが、ティディアの合図でぴたりと止まった。
「信じた?」
「ああもう、ありがとうよ!」
「あ、王家うちとニトロの家の交友も嘘だったんだけどね。あなたの御両親も気に入っちゃった。これから両家で仲良くやっていこうね」
 ニトロは答えない。うつむき、沈黙している。激しく拒絶してくると思っていたティディアは小首を傾げた。
「ニトロ?」
「あぁもーー! アーーー!! キャーーーーーーー!!!」
 突如、ニトロが絶叫した。
 抱えた頭を無茶苦茶に振り乱したかと思うと、急に静止して茫然と突っ立つ。とたんに破顔したかと思うと、おもむろにうろんな瞳で虚空を見つめ――
 ふいに腰が砕けた。膝から崩れ落ち、顔面から倒れ込みそうになるのを、震える腕が辛うじてかばった。
「……お」
 胸が痙攣した。喉から勝手に空気が漏れ出していくのを、ニトロは止められなかった。
「うおおおおお」
 もう何も判らない。脳が思考が恐慌を起こしている。なぜ泣いているのかも解らない。七日前の夕食はビーフシチューだった。それがどうした。なぜこんなところに自分はいるのだろう。泣いているのは誰のせいだ、涙って海の味がするんだなー。親か? ハラキリか? 自分か? いやティディアだ、あれ? ティディアって誰だっけ――
「おおおおおお」
 ただただ、涙がとめどなく溢れていく。目玉ごとこぼれそうな大粒の涙が。
「う〜ん……」
 泣き続けるニトロにかけられる言葉がなく、ハラキリは頭を掻きながらティディアに目を移した。それに気づいて彼女が微笑んだ。ハラキリは笑い返したが、その笑顔は愛想ではなく不本意が刻んだものだった。
「まったく、非道い人だ」
 笑顔の下に痛烈な非難をこめたがティディアは動じない。充実した顔で笑みを絶やさず、非難すらも満足に換えて楽しんでいるように見える。
「っ、おえぇえぇ……」
 ニトロの苦悶が聞こえてきた。見れば泣き過ぎて吐いていた。玉座の間を嘔吐物で汚した一般人は、もしかしたら彼が初めてかもしれない。
 横目でニトロを見るティディアの眉はひそめられているが、それは迷惑ではなく、少し心配げな眼差しの上にあった。
 ハラキリはため息をついた。その様子が何を示しているのか判りかねる王女へ、気の抜けた声で言葉を投げる。
「それにしても、全てあなたの掌の上でしたね」
「そうでもないわ。君が出てきたのは完全にイレギュラー。それがなければバッテスを助っ人にして全部シナリオ通りに流すだけだったから。
 おかげで思った以上に楽しめたわ。ありがと」
「お礼だなんてとんでもない」
 ハラキリは皮肉混じる半笑いで返した。
「言葉だけ受け取らせて頂きますよ」
「あら、ひどい。本当に感謝しているのに。気持ちも受け取ってほしいな」
「いやいや、そんな恐れ多い」
 言葉とは裏腹に、当てこする態度を隠さないハラキリに、ティディアはどこか嬉しそうに微笑んだ。
「ところでハラキリ君。ものは相談なんだけどさ」
「聞きましょう」
「私の直属にならない?」
「考えておきます。それより」
 と、王女の誘いをさらりと流してハラキリは、ティディアの眼を促すようニトロに目をやった。
 いつの間にか彼は体育座りで、ぶつぶつとつぶやいていた。内容は聞き取れないが、最高にねているのは理解できる。
「なんでまた、ニトロ君を主人公に?」
 その問いに、ティディアは意外な反応を見せた。頬を赤らめたのだ。
「結婚するためよ」
 そしてその言葉に、ニトロが飛び上がった。
「そうだ!」
 活気を取り戻し、振り向きざまにビッとティディアを指差す。
「お前、結婚したい奴がいるから俺に死んで欲しいんだろ? それはどうなった! あれも嘘か!」
「ああ、死んで欲しいのは嘘。結婚するのは本当」
「ほう! じゃあ何でもいいから結婚しちまえばいいじゃねぇか!」
「でもねー。過去に王族が一般人と結婚する例はいくらでもあるけどねー」
「何を気にしてんだ。バカ姫のやることならなんでも通るだろう」
「そうもいかないわ。単に一般人と結婚すると相手がコケにされやすいんだから。ここじゃそれは許さないけどね、他の国ではそうもいかないじゃない? 過去にそれを苦にした自殺者もいたし、特にたいして能のない連中に旦那が軽く見られるのは我慢ならないし。だから少しでも箔をつけてあげなきゃ」
「……うん、まぁ、それはなんとなく理解した。でも結局、何が言いたいんだ?」
「だから、いっちょドラマティックかつ派手にロマンスぶち上げてみようかと。映画の撮影中に燃え上がった恋物語。相手が有名俳優ならまだしも一般人なら、これぞまさに世紀のシンデレラボーイ! そして彼の才能を見出し育んだ王女との運命的な結婚! どんどんドキュメントを作ってがんがん盛り上げていくわよー!」
「楽しそうだなぁ」
「そういうわけで。不束者ふつつかものだけどよろしくね。ニ・ト・ロ」
「?」
 ニトロの脳波がこんがらがった。
 今、なんと言った? あそこで笑うお姫様は。
 聞くところによると、その台詞セリフは使い古された結婚相手への挨拶のようではあるが。
 あっそうか、聞き間違いだ。
「良かったな、ハラキリ。これで君も王様だ」
「いや、頭がどうにかなるのも無理ありませんがね?」
 ハラキリは光栄なことを受けたというのに、困惑顔でこちらを見ている。まったく、わがままな奴だと思う。
「おいおい。バカ姫からのプロポーズだぜ? 断ったらそれこそ死刑だぜ? 大人しく受けとけって」
「……」
 ハラキリはため息をつき、ティディアに訊ねた。
「結婚したい相手は?」
「ニトロ・ポルカト」
「……あれ? ハラキリじゃないの? そっかー。残念だったな、ハラキリ。でもそいつは誰だい? 果報者だなぁ」
 ニトロは腕組んでうなずいて……やおらどす黒い鼻血を垂らした。
「俺じゃん!」
「どこまで遠回りしたんですか」
 苦笑するハラキリにニトロは掴みかかった。
「逃げるぞ!」
「いやいや、さっき自分で、断ったら死刑とか言っていませんでしたか?」
「そうよー。女の子に恥かかせると電気椅子よー」
 ニトロはティディアを見た。本気だ。
「ほらほらほらほら依頼人の命が大ピーンチ! 助けるのがボディーガードのマナー!」
 ハラキリの襟首掴んで盛大に頭を揺さぶりながらニトロが叫ぶ。その目は血走っていた。顔面は恐怖に搾り出された汗と脂にまみれていた。
 そんな彼に、ハラキリは爽やかに言った。
「と言われても、契約はもう切れていますし」
「……え?」
 ニトロは硬直した。彼の動きが止まったところでハラキリは彼の手を払い、襟を正した。
「ほら、ニトロ君との契約期間は『あなたの安全が確保された、その瞬間まで』ですから」
「あ」
「理解されたようですね。そうです、さっきの『カット』で拙者との契約もカットということです。
 ああ、お代は高速料金を払う時についでに貰っておきましたので、お気になさらずに。もちろん契約不履行の場合は返金する手筈てはずでしたよ」
 ニトロの頭に、ハラキリとの契約交渉の記憶が蘇る。それを追って、怒涛の勢いで絶望が彼の血を侵していく。毒された血が凍り、冷たくなった足の感覚がなくなっていく。
 だがニトロは、崩れそうになる体を一縷いちるの望みに掛けて何とか支えた。
「ほ、本当は金はまだ引き出していないんだろ? 依頼受けたくないからそんな嘘ついているんだろ?」
「領収書は郵送いたしますね」
「……カードは?」
「野良猫に差し上げました。ま、すでに回収されているでしょう」
「…………必ずお金は払うから、新しい依頼受けて?」
「聞きましょう」
「ティディアを諦めさせて」
「無理」
 くらっと、ニトロの体が傾いだ。
「何故!?」
「縁切り屋は専門外ですし、そういう形で他人の色恋沙汰に手を出すのは信条にないですし、何より色々手を考えてみても不可能なようですので」
「俺は君となんかこう熱い友情を感じていたんだけど!」
「友情とは時に無力……」
「薄情者!」
「いやでも、殺されるよりマシでしょ?」
「殺されたほうがマシだ!」
「ひどい!」
 嘆きに満ちた声。ティディアは乙女チックに泣いていた。白いハンカチを噛み、背景に薔薇の花なんか背負いそうな勢いで本物の涙を流して。
 素晴らしい演技力だった。
「乙女の純情踏みにじるなんて!」
「だーれが乙女じゃ!」
 ニトロは中指おっ立てて叫んだ。
「どーこまでもどっこまでも人をコケにしやがって! 誰がてめえみてえな腐れ畜生と結婚するか!」
「え〜?」
「え〜? じゃねぇ!」
「じゃあ、私の求婚断ったら公開去勢、って法律作ろうかな?」
 ニトロは崩れ落ちた。本気だ。あの女の目はどこまでもマジだ。いや、あいつの本当に恐ろしいところは、その言動全てが抜かりなく真剣だということだ。例えどんなに破天荒なことに対しても!
 逃げられない。
 太古に失ったはずの食物連鎖底辺動物の本能で、ニトロは悟った。
「どうしたら勘弁してくれる?」
 ベッドに座って足組んで、膝に頬杖突いて笑っているティディアに、ニトロは懇願の目を向けた。
「そうね、納得できる理由があれば」
 ニトロは顔を輝かせ、跳ねるように立ち上がった。なんと簡単なことで助かるのか!
「俺はお前が嫌いだ!」
「すぐにとりこになるわ」
「王族になんかなりたくない!」
「じゃあ一度辞めちゃおう。その後クーデター起こして皇帝にでもなればいいし。あ、独裁者でもいいな」
「金持ちは嫌いだ!」
「破産しようか? どうせすぐ稼げるし」
「お前の存在が嫌だーーーー!!」
「ああっ! そんなに意識してくれてるなんて嬉しすぎちゃう! 愛されるのも時間の問題ね!!」
「っ嗚呼……こぉのポジティヴさんがぁぁぁ」
 ニトロは頭を抱えた。
「何でそんなに俺がいいんだよ」
「夢があったの。叶えられないと諦めていた、夢が」
「それが俺に何の関係がある」
「ニトロを初めて知ったのは、あの入学式。覚えてる? ほら、高校の」
「あー、あんたもいたねぇ」
「そう。あの時、校長のクソ長いおべっかにツッコンだ少年と出会った時、私のニューロンに雷みたいな衝撃が走った。天啓、それはそう思えるほどの予感だった。
 だから私は、その少年をずっと覗き見ることにした」
「ストーカー?」
「諜報班を貼りつかせたり、時には自分で盗み見とか、盗み聴きとか盗み撮りとか」
「やっぱストーカー?」
「ニトロの才能を知るにつれて惚れ込んでいったわ。あなたとの相性の良さも直感で分かった。そして予感は、確信になった」
 ティディアは夢見心地の瞳で両手を組んだ。
「ああ。私、夢を叶えられる……この人となら夫婦漫才ができるって!」
「――――」
 無の世界が、ニトロの心に広がった。悟りの境地だ。果てしなくくう。精神は自由に羽ばたき、どこまでも飛んでいける。
 ああ、傍らに天使の翼で羽ばたくのは、大鎌を持った仏顔のプカマペ様ですね?
「…………っ馬鹿なっ……」
「私の目に狂いはなかったわ。あなただけだもの。私に、手加減抜きでツッコンでくれる人なんて」
 ティディアは立ち上がった。うっとりとした表情で、棒立ちで虚ろな双眸を遠くに向けているニトロに、歩み寄っていく。
「ニトロ……愛してる。一緒に全宇宙を笑かしましょう!」
「ハラキリ、助けて」
 ニトロの顔を手で優しく包む、ティディア。彼女から必死で顔をそむける彼の言葉に、ハラキリは煩悶の笑顔で頭を振った。
「せめてお幸せに」
「いやああああ! たっけてーーーー!!」
 叫ぶニトロに、ティディアは言った。完全に血の気が引いている彼の顔を力ずくで自分に向けさせる。彼女は、目を潤ませて微笑んでいる。
「約束したよね? シェルリントン・タワーから逃げ出せたら……」
「いらない! やめろ! いやムグー!」
 強引に唇を奪われ涙するニトロ。
 情熱的に接吻し続けるティディア姫。
 ハラキリは、うなった。
「…………哀れな」

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