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 人間が真価を発揮する時は、いつだと思う?
 人生がかかっている時? 誇りが懸かっている時? それとも、大切な人を守りたい時?
 私は、それを知りたいと思うの。
<コゴア社『週刊ウィー・特集「ティディア姫、私の興味」』より>

 シェルリントン・タワーは、夜を迎えて更に人出を増やしつつあった。
 この時間帯の客層には、家族連れ、仲間の集い、恋人達が目立ち、ホールとなっている一階には幸せそうな顔をした者がひしめいていた。もちろん、人を待っているのか苛つきながらたたずむ者や、人目はばからぬ振る舞いをする恋人達をひがみや倦厭けんえんの目で見る者達もいる。
 そしてその中に、いかめしい表情を崩さずに直立不動の警備員の姿があった。
 正直この場にはそぐわぬ警備員の姿があるのは、ホールのとある一区画。200階以上に昇るためのエレベーターがある所だ。そこに、ニトロは人ごみに幾度となく足を止められながら進んでいた。
 シェルリントン・タワー一階ホールの名物、中央に浮かんでいる振り子時計は、6時42分を示していた。定例会見は7時からである。もう余裕はない。
 ニトロがエレベーターに辿り着くと、すぐさま女性の警備員が正面に立った。アンドロイドのようで、特有の『貼りついた表情』に薄い笑みを乗せている。ニトロの顔と左胸の身分証を合わせ見て、言った。
「JBCSのカロライ・セネスタ様ですね。ただいま照会致します」
 その眼に光が走った。目に埋め込まれている簡易センサーで危険物を所持していないかチェックしながら、身分証に記載された情報をデータバンクに送信しているのだ。
 身分証は絶対に通じると、センサーへの対策も十分に施されていると聞いているとはいえ、武器も入ったカメラケースを持つ手が緊張で震えそうだった。
「照会終了しました。どうぞお通り下さい」
「ありがとう」
 開かれたエレベーターにそそくさと乗り込み、ニトロは胸中に安堵の息を漏らした。
(まったく、本当にどういう手段を使っているんだ?)
 王家が関わる報道に携われる者達は、身辺調査なども含めて毎月厳しいチェックを受ける。その審査を通過した報道関係者だけが会見場などに入ることを許可され、データバンクに登録される。登録されてしまえば、よほどの時でもなければ詳しい身体検査はされない。そのためデータバンクは強力なセキュリティで守られているのだが……ハラキリは、そこに侵入して、架空の人物を作り上げたのだ。
 重罪である。
(まぁ、相手が相手だから、それぐらいしなきゃならないだろうけど……)
 エレベーターは高速で目的の階に昇っていく。監視カメラの存在が気になるのは、初めてだった。
(……もう、奴は来ているのか?)
 250階に辿り着いたところで鐘が鳴り、扉が開いた。ニトロはできるだけ警戒心を表に出さないようにしながら外に出た。
 エレベーターホール前のフロアには、人がごった返していた。奥にあるホールへの扉は未だ閉まっている。どうやらここは報道関係者の休憩所らしかった。
 休憩所、とは言っても、実際は戦場である。何台ものモニターや機器の資材が並び、キャスターやカメラマン達が戦闘を前に気合を入れている。その中には、JBCSのクルーもいた。
「あ」
 JBCSのクルーを目にしてニトロは思わずうめいた。『彼女等』には見覚えがある。ホテル・ベラドンナで、自分をパーティーの招待客と間違えてきたインタビュアー達だ。
 ニトロは極力、彼女等に気づかれないようフロアの隅に行こうとした。が、
「おっと、失礼」
 足を踏み出した時、ぶつかった男性が言ってくる。
「お、新人か?」
 男性の胸にはJBCSの身分証が輝いていた。
(ひいいいい!)
 ニトロは心の中で悲鳴を上げた。
 いきなり大ピーンチ。
 ニトロは何とかごまかしてこの場をしのごうと思案を巡らしたが、良案が出るよりも男性の行動が先だった。
「迷ったのか? 仕方ねぇなあ」
 男性は面倒見良さそうな笑顔で、ニトロの腕を掴んで歩き出した。
「ほらこっちだ。先輩を待たせるもんじゃねぇぜ」
「は、はいい」
 ニトロの返事は震えていたが、男性はそれを緊張と取ったようだ。
「今からそんなんじゃ、本番までもたねぇぞ?」
「はいいい」
 ニトロは虚しくも、JBCSスタッフの輪の中に放り込まれてしまった。
 彼は涙目になっていた。特殊メイクは大した物で、心境に反応して冷や汗を浮かべている。
 自分は今、カロライ・セネスタという架空の男。データバンクには存在しても、現実には存在しない。こんな、JBCSで働く方々と面通しなぞされては、誰も知らないことを知られてしまう。『計画』が潰れてしまう。
(なんてこった、ついてない)
 心の中では号泣し、スタッフの輪の中の一番外で縮こまっているニトロに、あのインタビュアーが声をかけてきた。
「君が新人のカロライ君ね。急に部長がこっちによこすなんて言うから、びっくりしたわ」
「え?」
「まったく、部長も何考えてるのよね。定例会見を新人教育に使うなんて」
 腕を組んで口を突き出す女性の様子に、ニトロは呆気に取られた。
「あ。挨拶してなかったわね。私はジョシュリー・クライネット、アナウンサーよ。知ってるでしょ?」
 ニトロは慌てて、何度もうなずいた。ジョシュリーは笑い、
「君の指導をするのはこのおっさんよ」
「おっさんと言うな、能無しジョシュリー」
 ジョシュリーに指差された男性は、機嫌悪そうに言った。彼女は彼に、いーっと歯を見せた。
「彼がカメラマンのデバロ・オレブ」
 ニトロの耳元で、囁く。
「嫌味なオヤジよ」
「はぁ、よろしくお願いします」
「よろしくしねぇよ。若造」
 ちっと舌を打ち、デバロはぶつぶつと毒づいていた。まぁ、この戦場のような場所でいきなり新人教育を申し渡されたのだ。不機嫌になるのも無理はない。
 しかし、
(手は打っていたのか)
 ハラキリの『仕込み』に助けられたニトロは、安堵していた。彼はこのような事態も考え、ジョシュリー達の上司を演じ、カロライ・セネスタを現実化していてくれたのだ。
 ……まさか、本当にカロライ・セネスタがいるという可能性は、思考の外に捨てておくべきことだ。考えない、考えない。
「それでは皆様、開場したしますので順序良くお入り下さい! まずはJBCSから!」
 と、定例会見の行われるホールの扉が開き、中から現れたタキシードの男が言った。
「遅れるなよ、若造」
 ハンディカメラを肩にして、デバロがニトロに言う。彼はケースを肩にかけ、ジョシュリーを先頭にホールへと急ぐJBCSの列に加わった。
 なるほど、ハラキリがこの局を選んだ理由がよく分かる。ジョシュリーは記者席の前列中央に座り、ニトロ達カメラマンも会見席を最もとらえやすい位置に案内された。これならば行動を起こしやすいというものだ。
 ホールには次々に人が入ってくる。およそ300名はいようか。最前列付近はいいが、後ろに行くほど人の密度が増し、文句や抗議と罵声が聞こえてくる。
「始まったら押してくるからな、場所を奪われんじゃねぇぞ」
 デバロがカメラのピントを確かめながら言う。
「会見の進行は知っているな?」
「いえ。まだ聞いていません」
「チッ」
 舌を打ち、デバロが腕時計の内蔵コンピューターを起動させて宙映画面エア・モニターを出す。
「そこに書いてある通りだ」
 そこにはタイムテーブルがあった。7時から会見が始まり、まず王家からの近況報告がある。その次に行政に関する報告、経済に関する報告と今後の見通しと続き、
「……」
 ニトロは、遠いものを見つめる目で会見席を眺めた。
 タイムテーブルの最後には、こう書いてあった。
 『本日の催し・マスメディア各社と酒池肉林(新人アイドル達も来るよ)』
「特に最後の催しは修羅場だ。スクープ映像も撮れるからな、油断するんじゃねえぞ」
「……はい」
 まぁ、本当の修羅場は、この前に行われるのだが。
 ニトロは、鼓動がこれまでにないほど早打つのを感じていた。緊張で手に汗が浮かび、喉が渇いていく。デバロの腕時計を覗き見れば、7時まで残り1分に迫っていた。
 あと30秒……20秒……9、8、7……
 ニトロは手の平をズボンにこすりつけて深呼吸を繰り返した。腹に深く沈み胃をせり上げる重圧を吐き出すように、何度も、覚悟を決めるために。
 そして、7時が訪れた。
 ガラガラガラッとけたたましい音を引き連れて、台車に乗った大太鼓と厚い胸板のふんどし男が会見席の前に登場した。
「?」
 ニトロが呆気に取られる中、ホールにフラッシュの光が充満した。目もくらみそうなほど無数に弾ける光を浴びながら、男は気合を入れた。
「ぃよ〜〜〜ぉっ!」
 ドンッ! と一発、重い音がホールに響く。男が叫んだ。
「姫様の、おなぁぁりぃぃぃぃぃ!」
「…………」
 ニトロは、ホールを包むノリについていけなかった。
 ティディアの、定例会見の登場パフォーマンスは有名だった。毎回趣向を変え、時に地味に、時に派手に登場しては視聴者の度肝を抜く。ゴールデンタイムに王立放送で、あるいは各テレビ局も副映像で生放送されているくらいだから、ニトロも見たことはある。
 だが、こんな奇抜なものは見たことがなかった。ニトロは、ホールを包むノリにまったく、ついていけなかった。
 なんだろうか、今、ホールに入場してきた女は。なぜ、白装束で、ハチマキ巻いた頭にえらい勢いで燃える赤い蝋燭ろうそくを立てている? 何故、老若デブ・痩せ・マッチョと様々な男が担ぐ輿こしに乗る必要があるのだ?
 分からない。
「あ〜ああ〜〜あ〜〜〜〜」
 妙な旋律で楽器の刻むエスニックなリズムに体をくねらせ、彼らは何をあーあーうなっているのだ? 解らない!
「ぼさっとするな」
 デバロがカメラを回しながら、ニトロに小声で言ってきた。彼は慌ててハンディカメラを構えて、体裁を取り繕った。ふと周りを見れば、マスメディアの面々は冷静に目前の事象を撮影している。
「プロだ」
 心底感心して、ニトロは片笑みを浮かべた。自分はこの世界に向いていない。将来の就職希望先から、マスメディア関係は抜くとしよう。
 そうこうしているうちに、ティディアは会見席についていた。ぺこりと彼女が頭を下げると、溶けて溜まっていたろうがぼたぼたと机に落ちた。
「皆さん、こんばんは。今夜は地球ちたま日本にちほんという国の入場行進をパクってみました」
「へー」
 ティディアの言葉に、マスメディア各位が申し合わせたように感嘆の声を上げる。ニトロも、釈然としないものを感じつつも、一応それにならう。
「そしてご紹介」
 と、彼女は太鼓を叩いたふんどし男を横に並べた。よく見ればかなりの美形である。
「こちら恋人のヂョニーです」
 一斉にフラッシュがたかれた。これまでとは比べ物にならない光量にホールが何倍も明るくなる。会見席の二人は真っ白な光で塗り潰されたかのようだ。
 その最中、ティディアがヂョニーとやらの乳首を貫いて名札をつけた。痛そうである。血も出ている。痛いのだろう。彼は涙目だった。恋人を紹介した王女に、記者達から矢のような質問が浴びせ掛けられる。
 その光景を、ニトロは握り締めた拳に青筋立てて、奥歯を強く強く噛み締め見つめていた。
「質問は後で。今日は機嫌がいいから、後で何でも話してあげるから」
 ぴたっと、質問の嵐が止んだ。誰かが鳴らした歯軋りの音が、静まり返ったホールに聞こえた。
 その音を奇妙に、誰彼のみならずティディアも不思議そうな顔をしたが、すぐに気を取り直して事を進めた。
「では、定例会見を始めるわね」
 彼女は、ヂョニーが手渡した板晶画面ボードスクリーンを見ることもなく机に置き、言った。
「王家の近況、元気です。行政、問題なし。経済、儲かっています。今後の展開? ま、なんとかなるんじゃなぁい?」
 ティディアは、ぺこりと頭を下げた。
「あっちぃぃぃ!」
 短くなっていた蝋燭の火に髪を焼かれてティディアは絶叫した。彼女はハチマキから蝋燭を引っこ抜き、怒りに任せて床に叩きつけた。
「…………」
 そして、何事もなかったように姿勢を正した。もう一度ぺこりと頭を下げる。
「それでは長くな」
「短ぇ!」
 ニトロの堪忍袋の緒が切れた、色々とツッコミ所満載なティディアの会見に噴き出した衝動が理性を完っ全にすっ飛ばしていた。
「なんだこの滑稽な出来レース! これはゴールデンなタイムで生放送だぞ!? お子様も見てるんだぞ!? 番組で教育なんぞ語るんなら、もーぉちょっとまともな会見やりやがらんかいっつーかメディアもツッコめ奴ぁ豪快にノーガードじゃねーか! 相手バカ姫だからって遠慮してんじゃねっつーかお前ら広報屋スピーカーかぁぁああ!!」
 一息でとめどなく、素晴らしく流暢にそこまで叫んでニトロは
「あ」
 と、口を開けた。
 デバロが、ジョシュリーが、マスメディアの皆さんが、顔を蒼白にしてニトロを見つめていた。JBCSのスタッフの中には、あまりの事に泡吹いて倒れている者までいた。
 ホールにいる全ての者の視線が集まる中心で、ニトロは立ち尽くした。
 ホールにいる全ての者の視線。ヂョニーはあんぐりと口を開け、ティディアも目を点にしてこちらを凝視している。
「あーうち」
 痛恨の事態に、ニトロはうめいた。
 必至の一手を放つ絶好の機会を、自らの手で、潰してしまった。
「……ニトロ? 本当に、本物……?」
 集音マイクが王女のつぶやきを拾った。彼女は珍しく、うろたえているようだった。
 ニトロ、ティディアの度肝を抜くことに成功。ちょっとだけ胸がキュンッってなった。
 天井を仰いで息を吐き、彼は素早く気を切り替えた。
 こうなったら先手必勝だ。
「みんな、聞いてくれ!」
「暗殺者よテロリストよ婦女暴行魔よ! 捕まえたら報奨金よ!」
 後手大敗。
 ニトロは悲鳴を上げた。ティディアの悲鳴と同時に現れたSPの姿に、
「だぁぁぁ!?」
 そして、雪崩をうって襲いかかってきたマスメディア各位に。
 すぐ隣のデバロは、こちらの腕をすばやく掴んでいた。瞳の中には、報奨金の文字が輝いている。
「ふんがぁ!」
 気合一発デバロの手を振り解き、ニトロは叫んだ。
「ティディア!」
 将棋倒しに折り重なるマスメディア連中から軽やかなフットワークで逃げ出した彼は、勢い任せに顎へ手をかけた。一気に特殊メイクを引き剥がす。
「あ痛たたた!」
「ああ!」
 特殊メイクの下から現れたのは、接着剤に皮膚を引っ張られている少年の顔だった。それを見て、他社の記者の下敷きになっているジョシュリーが、驚愕の声を上げた。
 あのホテル・ベラドンナにいた少年が、今ここで、会見席場で笑うティディアを睨みつけている。
 彼は剥ぎ取ったマスクを王女に投げつけ、親指を下向けて叫んだ。
「いつか泣かす!」
「上出来よ」
 ティディアは、嬉しそうだった。
「80点をあげる。ここから逃げられたら、100点にディープキッスをつけてあげるわ」
「いらねえよ!」
 今やホールはパニック状態にあった。先を争ってニトロを捕まえようとした取材者達は、未だお互いに先を争っている。その結果、絡み合い、もつれ合い、人の山となり蠢いている。
 幸いなことに、それが邪魔してSP達がこちらに向かって来られない。銃も、誤射を恐れて撃てずにいた。
 今度こそ機を逃さず、ニトロはハンディカメラの『本当の機能』を作動させて、ホールの真ん中へと放り投げた。
「――やってくれるじゃない」
 ティディアは宙に現れた『猫耳メイド服の姫と化物』を目にして、胸をときめかせた。その映像は、ニトロがハラキリと編集した彼女にとって最も痛いドキュメントだった。
 ホールの誰もがその映像に目を奪われている。だが、それが何を意味しているのかを理解できる者はまだいない。ニトロに何を言わせるよりも早く、ティディアが叫ぶ。
「ジャミング! 奴に応援を呼ばせるな!」
 彼女の掛け声に、すぐさま宙映画面エア・モニターがかき消えた。通信妨害と見せかけて、ホール内で宙映画面を使えないようにしたのだ。
 その隙に、ニトロはハラキリがくれたカメラケースからサンダルを取り出していた。それを靴のまま直接履いて彼は叫んだ。
「ゴー!」
 サンダルの側面に並んだ吸気孔が輝き、周囲の空気を凄まじい勢いで取り込む。それは底からさらに勢いを加速して吐き出され、彼の体を数センチばかり宙に押し上げた。踵を上げ角度をつけて進行方向を定め、床の上を滑走するようにホールから逃げ出したニトロは、ジャケットの襟に埋め込まれている通信機を指で触れて起動させ、『彼』を呼び出した。
「ハラキリ」
「はい」
 耳下の襟にある超小型スピーカーから、ハラキリの声が返ってくる。それは力強いものであったが、微かに無念が見えた。ニトロは心痛めながら苦渋を吐き出した。
「すまない、失敗した」
「観ていました。笑うしかないにしては上々のネタでしたよ」
「あー。そりゃどうも」
 通信に雑音が混じった。本当に通信妨害をかけてきたようだ。この通信機の性能のお陰でまだ何とかつながっているが、いつ切れてもおかしくはない。
「どうすればいい?」
 エレベーターホールを飛び抜け非常口に向かいながら、ニトロは慌てて訊いた。
「屋上へ昇って下さい」
「え? 一人で逃げろっていうのか?」
「ええ」
 ニトロの問いに、ハラキリは事もなげに答えた。
「今からそちらに行くには、不利が多いので」
 確かに、下手をすれば二人そろってお縄にかかってしまうだろう。
「いや……でも」
「時間がありません。大丈夫です。高速道路で確信しました、君にはできます。それに、捕まりさえしなければ君は殺されることはない」
 スピーカーから、大きな雑音が弾けた。
「くそっ!」
 ニトロは毒づいた。
「屋上に逃げて、どうしろって言うんだ?」
「屋上に上がったら、王城の見える方角へ飛び降りて下さい」
「何だって!?」
 ニトロは驚愕した。
「飛び降りろだって!?」
「そうです」
「一体どうする気なんだよ!」
「拙者を信じ」
 そこで、通信が切れた。
「ハラキリ? ハラキリ!?」
 応答はない。ニトロは唇を噛み、迷った。
 この状況で、とるべき行動が一つしかないことは解っている。例え突きつけられた要求が無理なものであっても、ハラキリに従うしかないのだ。
 だが、それで逡巡がなくなるわけではない。『従うしかない』ということは、逆に大きな葛藤を心に与えることもある。
「くそ」
 ニトロは、揺れる瞳を足音響くエレベーターホールに向けた。
 追っ手は、警備員やSPではなかった。それよりも速く、マスメディア連中が物凄い形相で迫ってきていた。その目は、金・金・スクープ・金の字に彩られている。特に顕著なのはJBCSの一行だった。
 そして、
「待て待てーーー」
 その先頭には、あははーと笑ってマスメディア連中引き連れて、手におの持って追いかけてくるティディアがいた。
「待ってよ、ニトロく〜〜ん」
 むかついた。
 腹を決めた。ニトロの目が、すわった。
 カメラケースの中、無数のアイテムの中からミニボトル型の閃光手榴弾スタン・グレネードを選び出し、頭のキャップ状の安全装置をねじ切ると
「くらいやあああ!」
 渾身の力で投げつけた。
「ぎゃあ!」
 それは見事にティディアの額にヒットした。そして床に転がった爆弾がピッピッと音を立ててカウントを始める。
「うわわわわ! 待避、待避ーー!」
 ティディアが叫ぶ。
 だが統制のとれない追っ手達の勢いはなかなか止まらない。前は退き後ろは迫り、内部へと潰れる団子のようになってその場で慌てふためくばかりだった。
「ちょ、こら!」
 さすがにティディアも焦っていたが、人塊の横に逃げ道を見つけると、その隙間を脱兎のごとく駆け逃げていった。
 その様子を尻目に、ニトロはケースの紐を肩にたすき掛けにして、手で耳を塞ぐとサンダルの機能を再び起動させた。一拍を置いて、大音響と、周囲の物々から輪郭を奪うほどの閃光が爆発した。強烈な光と音が無防備な者達の視覚と聴覚を痛みで塗り潰す。そこへ催涙煙が噴き出して、追っ手達を混乱の極みに突き落とした。
 機に乗じてニトロは非常階段へと疾走した。非常口エスケープの重いドアを押し開け、薄暗い階段へと飛び込みながら彼は叫んだ。
「おうし。やってやろうじゃないか!」

 例えば、クァーレット(編集注:インターネットの戦争シミュレーションゲーム)で対戦相手が、ゲーム中に成長して、予想を超えた行動をしてきた時。
 楽しくて嬉しくて、私の人生は輝きを増すのよ。
<コゴア社『週刊ウィー・特集「ティディア姫、私の楽しみ」』より>

 電池が切れ力をなくしたサンダルを履き捨てたところで、ニトロの耳に、階上から迫る多くの足音が届いた。
「先回りかよ」
 当然のことではあろうが、それでも文句を垂れて、ニトロは非常階段から抜け出ようと間近のドアに駆け寄った。
 ノブに手をかけて、扉のプレートを見る。階数は280階だった。
「あと20階……」
 半ば絶望的な心持ちで、ニトロはつぶやいた。果たして、追っ手をまいて昇ることができるのだろうか。
「いたぞ!」
 と、階下からも声が届いてくる。
 戸惑う暇もあらばこそ。ニトロは慌てて内側へ入り、急いでドアを閉めた。そしてカメラケースから粘土のような小さな塊を四つ取り出す。彼はそれをドアの四隅に張り付け、続いてライターを取り出した。それで粘土をあぶると、粘土はあっという間に溶け、接着剤となってドアを固定した。
「すげ……」
 説明は受けていたが、これほどまでとは。
 ニトロは確保された時間を無駄にしないよう、すぐさまその場を離れた。同時に、ドアを叩く音と怒号が聞こえてきた。
「ここは?」
 それに恐怖心を起こされぬよう、自心をわざわざ口にする。
「……映画館?」
 ニトロがいるフロアは、一本の廊下だった。左右に長い廊下。少々勾配こうばいがあり、それは左に行くほど深くなっている。非常口に対面する壁には、一定の間隔で木製の、素晴らしい彫刻が施された扉がある。確かに、この風景は映画館の廊下を思わせた。
 とにかくニトロは、扉の一つを開けようとノブを手にしたが……。
「戸締まりしっかりされていること」
 振り返れば、非常口のドアの一部が赤く変色を始めていた。レーザーで焼き切りにかかっているのだ。
「……それが一番だよな」
 うなずいて、ニトロはケースから懐中電灯に似せて作られたレーザーガンを取り出した。通常のものより出力が格段に劣るが、ドアノブを撃ち抜くには十分だ。
 安全装置を外し、出力を最大に合わせて装飾施された金のノブを撃ち抜くと、いかにも高価そうな扉を思い切り蹴り開いて中に侵入する。そして油断なく周囲に銃を向け、敵がいないことを確認しながらこの場の情報を得る。
「ああ……」
 一通り目を回したところで、ニトロはここがどういう場所であるか思い出した。
「クラント劇場か」
 民間においてアデムメデス一の資産を持つレッカード財閥が国に寄贈した劇場。王家が財閥に謝意を示してその創始者の名を冠した、アーティスト達の聖地の一つ。
 シェルリントン・タワーの275階から290階までが劇場に使われ、その上の10階が劇場運営のためのものとなっている。
 今は照明もなく、非常口を示す灯りがぼんやりと点いているだけ。その僅かな光は闇を少しだけ薄めて、そこに巨大な劇場空間の輪郭が滲み出ていた。人がいない、人を楽しませるための空間。不気味さと、荘厳さが入り混じって、ニトロの心を締めつける。
 ここには思い入れがあった。
 いつかここで、両親に『道化のつるぎ』を観せてやりたかった。
「ああ、アーティストの皆様ごめんなさい」
 ニトロは、自分がコの字型になっている二階席にいることを理解した。ここで追い込まれては袋のネズミだ。採れる進路は二つ。エントランスに行ってエレベーターを使うか、舞台に行って関係者用の通路を使うか。
「俺はきっと聖地を荒らしてしまいます」
 生き残れる可能性が大きいのは後者と判断して、ニトロは走り出した。
 二階席から舞台に行くには、二階席のへりから舞台に向けて跳ぶしか手段はない。そこから舞台までは、およそ距離20m高さ10m。跳んだところで、舞台にかすることもできまい。ただの自殺行為だ。
 しかしニトロには勝算があった。彼が履く靴には一度きりの機能がある。それは、最高で20mもの大ジャンプを可能とする装置だった。
「いたぞ!」
 背後からの声に、ニトロは肩を震わせた。
「うっひょぉぉぉぉう!」
 ニトロは掛け声とも、悲鳴ともつかない声を上げ、足の回転を早めた。耳の横を明らかに致死量の熱を伴った光線がかすめ、髪が銃弾に切られる。
「俺を殺してもいいのか!?」
 肩越しに振り返り、牽制にレーザーをでたらめに撃ち返しながらSPや警備員に怒鳴りつける。
 ハラキリは言っていた。ニトロ・ポルカトを殺せるのは、ティディア姫だけだと。
「バカ姫様に怒られるぞ!?」
「だから殺さないようにしているじゃないか、少年!」
「しっかりドたまを狙ってるじゃねぇか! 当たりゃしっかり殺されるわ!」
 SP達の回答に激怒を返し、ニトロは二階席の最前列に辿り着いた。
 レーザーガンを捨て、彼はケースの中から手袋を取り出した。ハラキリの説明では、壁などに貼り付くことができるという。
 踵を打ち合わせて、靴に備わる大ジャンプ補助装置のスイッチを入れる。靴がエネルギーを溜め込んでいくのを肌に感じた。素早く手袋をはめながら、二階席のへり、落下防止用の手すりに足をかける。
「とぉう!」
 そして気合一発、ニトロは跳んだ。舞台を隠している重厚な幕へ向けて。
「ああ!」
 背後から、悲鳴。こちらが自殺したように見えたのだろう。だがニトロは笑っていた。本来人が得られぬ飛翔の快感と追っ手の予想を超える優越感、そして彼らをまく爽快感に。
 ニトロは手を伸ばした。ギリギリ、幕に手が届くのは、ギリギリの距離だ。だが届くには充分な距離。
 ニトロの手は、栄光の幕を手に掴んだ。手袋の機能が発揮され、掌に力強い安定感が伝わってくる。落下はしない。幕を確かに掴み、このまま俺は舞台の天井裏にまで登りつめるのだ。
 スルッ
 手袋の吸着力が強くても、ちゃんと手袋をベルトで固定しなかったために、肝心要の手自体がすっぽ抜けてしまったとしても。
「へ?」
 ニトロは笑顔のまま、腹の奥に生まれた感触に冷や汗を垂らした。
 この感触は、フリーフォールに乗った時に感じたことがある。膀胱という臓器が、ひとりでに浮き上がるこの感触は。
 ニトロの体は、一瞬の停止の後、すみやかに落ちていった。
「あああああ!」
 ニトロはSP達との悲鳴のハーモニーを劇場に響かせながら、内心でハラキリに叫んでいた。
(使用上の注意はしっかり言っとけえ!)
 ……その頃。
「はぇくしょっ!」
 ハラキリはニトロが屋上に現れる時を待ちながら、凍える大気に震える肩を抱いていた。
「あー。冷えるなー」
 眼下に広がるジスカルラの夜景は、美しいの一言に尽きよう。ハラキリとしては自然の情景というものが好みではあったが、この無数の光の中で、様々な人生が様々に展開していることを考えると、それでも胸には情緒が溢れてくる。
「ニトロ君まだかなー」
 そんな情緒を心に染み渡らせながら、ハラキリは水筒のお茶をカップに注ぎ、ずずずっとすすった。
「あー。お茶がうまい」
 ちょうどこの時、彼が目にするシェルリントン・タワーの光の中で、ニトロ・ポルカトの人生は、幕から舞台に墜落し、痛みに転げまわったあげくの拍子で舞台装置の『奈落』の底まで落ちていっていた。

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