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 ……運命の神は言った。「私は無責任である。祈るな、頼るな、自分で決めろ」
<コポコ出版・『哲学者コロンモレリの言葉』より>

 このお話の主人公、ニトロ・ポルカト。彼が、なぜ絶望を抱えているのか……皆様には察して頂けているだろうか。その説明がなかったのは、無論構成ミス……ではなく、いやそうではなく――――
 このお話の主人公、ニトロ・ポルカト。彼を呼び出したティディアという者は、つまるところこの星の王女である。
 ティディア・フォン・アデムメデス・ロディアーナ。それが、ニトロを脅かす名だ。
 なぜ、彼は彼女に恐れを抱いているのか。普通ならば、王女に呼び出されることは、一般人にとって真に光栄の至りであろうに。
 答えは単純である。王女が普通ではないからだ。
 ティディア姫は、現王・王妃の間に、四番目の子として生まれた。御歳十九。上には兄二人姉一人がいて、下には妹と弟がいる。本来ならばその王位継承権は四位となるのだが、現在、ティディア姫は第一王位継承者だ。
 しかし、それは上位の者が他界したとか、継承権を譲渡したとか、そういうわけではない。全員素晴らしく健康体であるし、むしろ権力欲にまみれている。妹なんぞに王位を譲ろうなんていう発想は、毛ほどにも思い浮かべまい。それなのに、彼女に第一継承権があるのは、彼女がそれを『奪い取った』からだ。
 しかし、『その事実はない』。
 だが、長兄が三人の女性を孕ませたスキャンダルで失脚し、次兄は収賄で告発されて有罪・投獄(次兄は王家から追放された)。長女は兄妹の中でも最も傲慢で権力への執着が強い人物であったが、ある日を境に王位継承権を辞退し、現在は何かに怯えて隠遁生活を送っている。
 ティディア姫が、謀略を企て実行したという『証拠はない』。ただ、王位継承権を失った三人全てが彼女の名を耳にすると、パニックもしくはヒステリーを起こすことは公に知られるところである。
「……で?」
 そこまで姫様のプロフィールを思い返してから、床に座り込んだニトロはタッチパネルの前で微動だにしない『犬』に聞いた。
「まだ着かないんですか?」
「超VIPルームは、存在する階数をエレベーターの到着時間で悟られないようにされています。その時間は複数あり、通常・1分・2分・極稀に15分と設定されています」
 ニトロはため息をついた。
「15分が当たったわけですか」
「本当に珍しいのですよ。運がよろしいですね」
「悪いっちゅーんだよ、『犬』さん」
 もはや執事を犬と呼ぶことに慣れてしまった。
(こうやって人は汚れていくのかなぁ)
 もう一度ため息をついて、ニトロは再び思惟に戻った。ゆっくりと動いているのであろうが、超伝導リニアエレベーターは音も振動もない。実に茫然としやすいものだ。
(でも、これから会うのは汚れているっていうより……)
 ロディアーナ朝第129代王位継承権保有者、ティディア。
 彼女は、史上最恐の王族と言われる。だがそれは、人柄だけが取柄の王に代わり実権を掌握しているからでも、王権の公私混同が群を抜いて激しいからでも、気に入らない者には即座に厳しい処分を下すからでもない。
 誰もが言う。彼女の『嗜好』がまともでさえあれば、まさに完璧な姫君だったと。
 実際、ティディア姫の政治手腕は素晴らしい。内政、外交の懸案を彼女はいくつも解決した。問題解決のためには強硬手段も辞さないが、その政策には無駄がない。この星が連星で目立つようになったのも、良くも悪くも彼女によるところが大きい。
 他にも、彼女が実権を握ってからの四年で成し遂げた偉業は多い。民にとって有益なシステムを幾つも提供し、イメージ戦略のためか素なのか慈善事業も幾つか手抜きもせず運営している。そこだけを見れば間違いなくティディア姫は史上最高の王族であろう。そのため支持も多く、彼女が失脚しないのはここに理由があった。
 だが、だがしかし! 数々の偉業に並行して、数々の異業も行われているのだ!
 代表的なところでは、自分以外にティディアと名乗ると罰金1兆リェン(ただし、ティディア2とか、ティディアDXデラックスとかは面白いので許可)という法律を作成。
 類型的なところでは、俺は硬派だ女はいらんと公言する少年を『証明しろ』と素っ裸の美女十人と1DKに一ヶ月住まわせる→3時間後、少年は強姦未遂で現行犯逮捕、現在執行猶予期間中。
 あるいは『限界に挑戦』と、仲の良い夫婦の夫を人質にし、200kmを24時間で走りきらなきゃ人質を埋めると言ったこともある。その時の妻が走る姿を中継した番組は視聴率90%を越え、最後は地を這いながらも時間内に完走した結末は星中の人々を涙させた。
 等々、枚挙にいとまがない。
 はたから見ているならまだしも、彼女に付き合わされることだけは誰もが絶対に勘弁願う。
「つまり、俺は何をさせられるのか。それが問題だ。そう問題だ。問題なんですけど?」
「黙秘権を行使致します」
「…………」
 それ故、名君なのか暴君なのか絶妙な所で判断しかねる姫様を、判らないからこそ余計に人々は畏怖している。もれなくニトロも。
「到着致しました」
 執事が言うや否や、リンと軽やかな音に続いて、エレベーターの扉が音も無くスライドしていった。
 立ち上がるニトロの目に、強い存在感を放つ人影が映る。薄暗い部屋の中で一人こちらに向かって立つ女性。まるで、大窓に煌く1億リェンの夜景が、彼女を装飾する宝石でしかないようだ。
 彼は執事に促されるまま、エレベーターから出た。そして、光の宝石まとう影を称する名を胸中に漏らした。彼女が、自身を「私、クレイジーだから」と言ったためにつけられた……敬意と厭悪えんおを以て口にされる名を。
(クレイジー・プリンセス)
 と。

 ……時として人は、想像の限界を超えた世界に直面する。その時とられる行動は、一つの真理として尊重されるべきであろう。
<コポコ出版・『哲学者コロンモレリの言葉』より>

「犬は下がりなさい」
「かしこまりました」
 音も無くエレベーターが去っていく。見ずとも、気配で感じる。ニトロは絶望と孤独をこれほどまでに感じたことはなかった。明かりがあれば、前に立つ彼女の瞳の中に、蒼白となった自分の顔が見えるだろう。
 彼女は沈黙を保ったまま、こちらを見ていた。その視線に堪えられずニトロは目を泳がせていた。
 エレベーターに直結するここは、すでに部屋だった。おそらくはこの階全てが超VIPルームなのだ。そしてその一角でしかないこの場ですら、一般的な一戸建ての敷地近い広さがある。
 なぜか明かりはほとんど落ちていた。点いている照明は、壁面に点在する橙色のライトだけで、その場その場は強く照らされているものの、離れるにつれて光は淡く弱くなっている。部屋の中央となれば陰に近く、外の光と合わせてもニトロの瞳は今しばらく慣れる時間を必要としていた。
「いらっしゃい」
 未だ人影たる姫様は、どうやら微笑んだようだ。うっすらと見える笑顔に、ニトロは奥歯をきしませた。
「そんな所に立ってないで、こちらに来なさい。コーヒーを用意してあるから」
 ニトロは目が慣れてくるにつれ、疑問を胸に芽生えさせた。踵を返した彼女は裸に近い。
「……ぁ」
 しかし、その疑問を解く暇はない。ニトロはとにかく、ティディアが座ったソファの向かいに座った。二人の間にはクリスタルガラスのテーブルがあり、そこには白磁のカップが二つ。暗がりの中になお黒い液体が、芳しい香りを漂わせていた。
「…………なぜ……」
「ん?」
 緊張をどうにか解そうと、ニトロはコーヒーに口をつけるティディアに訊いた。
「なぜ、こんなに暗いのですか?」
 体の中に警戒を残しながら、努めて礼儀正しく敬語を使う。気を抜けば、きっとやけくそなタメ口が出てしまうだろう。
「あら、気に食わない? ムーディーな雰囲気を演出してみたんだけど」
(ムーディーって……)
 今のニトロの心理にムードも糞もあるものか。
 暗さに慣れたニトロの目は、今やティディアの姿を見とめていた。彼女はかなりきわどいビキニ状態の、光の加減で虹色の玉虫のように彩りが変じるドレスを着ていた。いや、下半身を覆う布切れの、左半分だけがロングスカートになっていたから辛うじてそれをドレスと思えたわけだが……。
 しかしニトロの目は、その『大胆なドレス』よりも、暗みの中に白くなまめかしい女の肢体に自然と引きつけられていた。
 ある芸術家は、その肉体は至宝だと言う。スタイルは芸術の域に達し、尊顔は誰もがため息をつく、妖しいほどの美しさ。濡れ色に輝く黒紫の髪は滑らかに肩に流れ、彼女の妖艶さを際立たせている。乳白色の肌の木目細かさは、最高級の絹ですら敵わないだろう。心地良い声に、勝る楽器もない。
 天は人に二物を与えないと言うが、それは嘘だ。富・智・力・美の全てを兼ね備えた女が、今、少年に微笑みかけている。
(ただし、神のヤローは、肝心なものを付け加え損ねやがったがよ)
 ニトロは、ひきつりそうになる口の端をごまかすため、話しかけた。
「……もしかしまして、その大胆なドレスも、ムーディーのために?」
「これはこの後のパーティーのため。他意は無いわ」
「誘惑されているのかと思いましたよ」
「男なら私に発情するのは当然よ。ヤらせてあげよっか?」
「…………」
 ハハ……と、一瞬の間の後に乾いた笑い声を上げる。そしてニトロはカップを手に取った。温かい。こちらが来る時間を計って淹れられたのだろう。
「毒は?」
「入ってないわ」
 ニトロはコーヒーを一口すすって息を吐いた。そして、気づく。
「え? 『それ』で今日のパーティーに出るの?」
「きっと皆ビックリするわよー」
「いやまぁ、そうでしょうけど。驚かせるのに一体どんな目的が……」
「人をビックリさせた瞬間って、こう胸がキュンッってするくらい気持ち良いじゃない?」
「えーと?」
「そして話題は私が独占よ。セクシーだって、恥っさらしだって。ああ、明日のゴシップトークショーが楽しみ!」
 ニトロの鼻から、血が一筋垂れた。
「……うん、美味いなぁ、このコーヒー」
「一杯5000リェンだもの」
 ニトロの鼻から、コーヒーが一筋垂れた。
「うっぴょー」
「かわいいリアクションね」
 クスクスとティディアが笑う。ニトロは、そうですかとしか返事ができない。
「……ところで、俺に何用です?」
 カップを置き、彼は微笑んだ。
「ちゃっちゃと死刑宣告してくれませんか」
「あら、つれないわね。せっかく十数年ぶりの再会なのに」
ドラゴンと素手で戦えと言われりゃあ戦ぃ……再会?」
 ニトロは驚きのあまり声を裏返した。一度は聞き流していたが、その言葉、真ならばこのまま素通りすることはできない。
「覚えていないのも無理ないわ。最後に会ったのは、あなたが二歳の時だったから」
「は? いや、何?」
「知らないのも当たり前よ。あなたの両親と王家ウチの付き合いは、トップシークレットだったから」
 詳細の説明もなく喋り続けるティディアに対し、ニトロはあんぐりと口を開けていた。話についていけない、理解できない。あまりにも王女の言葉は突飛すぎた。平凡な家庭と、王家。どこに接点があると言うのだ。そうだ、こんな話、あるわけがない。きっとこれは
「そうか、冗談だ」
「本当」
「まっさか〜。うちの脳味噌天然発酵両親ペアレンツが、王家につながってるはずないっすよー」
「……御両親は残念だったわね。遺体も無かったなんて」
 目を伏して、ティディアは言った。
 その様子にニトロはさすがに口をつぐんだ。同時に、買い物がてらドライブしに行った両親がタンクローリーに衝突され、積まれていた精製フロギストンの爆発に巻き込まれて肉も骨も燃やし尽くされて他界したという、痛烈な事実が思考を侵略する。心を奈落に突き落とそうと重く圧し掛かってくる。これまで何度も負けまいと気を張ってきたのに、今も、今にも、吐き気と眩暈の塊が脳髄の奥で気持ち悪く体を震わせる。
「愉快な人達だったのに」
「……ええ」
 ティディアの声は、優しかった。こちらを気遣う、慰めの心が伝わってきた。ニトロは涙ぐみそうになったが、それを堪えて、彼女に訊いた。
「でも、なぜ両親が?」
「私の両親が、あなたの御両親と親友なのよ。昔、お忍びで町に出た時に知り合ったそうよ」
 組んだ足の上に両手を置き、ティディアは伸びをするように肩をすくめた。
「ほら。私の両親もかなり抜けているでしょう? それで気が合ったのね。確かに市井の者と親しくすることを公にするのは、色々なしがらみがあるから秘密にしていたけど……。それでね、私も小さい時、遊びに行ってたのよ?」
「…………知らなかったな」
 ニトロはうめいた。まさか、人生何事も楽しみ過ぎなあの両親が、そんなことを自分に隠していた……というよりも、隠し通されていたなど、思いもよらなかった。
(結局、親のことだってのに、あまり……知らないんだよな)
 親と疎遠であったとは思わない。むしろ親馬鹿だった分普通より多く話していたと思うし、もちろん一緒に食事も取っていた。
 だが今思えば、それだけ、だった。
(もっとちゃんと話しときゃ良かったな……)
 唇を少し噛み、ニトロはしばし目を閉じた。
(……けど)
 知らない、と言えば、目前の女性もそうだ。
 クレイジー・プリンセス、ティディア。
 確かに彼女は愚考蛮行をしたりもするが、今は優しく柔らかい、人の良い姫だ。友人の死を悼み、その息子に労りの眼差しを向ける姿は、ニュース映像で見る彼女からは想像できないものであった。
(自分の目で見ないと、判らないものだね)
 ニトロは、これまで彼女に抱いていたイメージを恥に思い、苦笑した。目を開いてティディアを見ると、先程はしょうもない格好と見えていたドレスが、とてもセクシーに感じられた。
「コーヒー、冷めるわよ」
「あ」
 言われて、ニトロは少しぬるくなったコーヒーを口に含んだ。時間が経っても薫り高いコーヒーに、ちょっと鼻の奥が痛くなる。
「美味しいです。とても」
「聞いたわ」
 ニコリと笑って……それは実に美しい……ティディアは足を組み替えた。
「じゃ。本題に入るわよ」
「へ?」
 コーヒーを飲み干したとたんの不意を突かれたニトロは間抜けな声を上げ、
「あなたに死んで欲しいの」
「――――…………はぁぁぁ!?」
 そしてティディアの要求に、素っ頓狂に叫んだ。

 ……嗚呼、人は何故、運命の神を生み出したのか。それを知らねば、もっと心安らかに生きられたろうに。
<モッコ出版 単行本『リリカレーの死』より>

「なぜ!?」
 当然なニトロの問いに、ティディアは嘆息した。
「半年後、私は二十歳になる」
「それが何の関係あるんスか!」
「公約、知ってる?」
「二十歳になる、に関係するのは、誕生日に結婚する!」
 流れのまま怒声で応えてきたニトロに、ティディアはうなずいた。
「私、結婚したい人がいるの」
「しろよ!」
「そうね。だから死んで」
「だからなぜ!!」
 一応、死も覚悟はしていた。だが、面と向かって、しかも半ば『裏切った』上に不意打ちで死を宣告されたニトロは、ほとんど狂乱状態で頭を掻きむしった。もはや立ち上がっている。
「俺が死ななきゃ結婚できないんかい!」
 気がついていないが、ニトロはすでにティディアに向かってかなりぞんざいな口を利いていた。しかしそのことを二人が気にすることはなかった。いや、それどころかティディアは嬉しそうである。
「私のモットーは?」
「有言実行。でも時々嘘もついちゃう。女の子だもん♥」
「言っちゃったのよ〜。0才児のニトロ君があまりに可愛くて〜」
「何てさ!」
「私、絶対この子と結婚する!」
「わはははははははは!!」
 奇声を上げて哄笑し、ニトロはどこのものとも知らぬ踊りを踊りまくった。それは激しく。もう、こぼれ落ちてはとめど無い涙をまき散らして。
 ……そして。
「嘘ぢゃないの?」
 ソファに沈み込む虚ろな瞳のニトロに、ティディアは笑った。爽やかに。
「事実」
「いや、でもその時あんた三才だろ? そんな口約束……!」
 左方に宙映画面エア・モニターが現れた。そこに3・2・1と映像が映る。それは、幼き頃のティディアらしい女の子と、鼻水を垂らしたニトロ(0歳)であった。
『わたし、絶対この子と結婚する!』
 音声。
 宙映画面エア・モニターは、儚く消えた。
「見事な証拠だ!」
 血涙流しながら、ニトロはサムアップした。
「いや……でも待てよ? ビデオは裁判において有力な物的証拠にはなり得ない」
「合成じゃないわよ」
「その証拠は!」
「私」
 ニトロは真っ白な灰になって崩れ落ちた。
 思いもよらなかった。思うこともしなかった。考える方がどうかしている。こんな理不尽な死が、目の前で大声で笑う光景を。
「あんまり過ぎる」
「そうね」
「お前が言うなぁ!」
 テーブルを叩いて叫んで、ニトロは気づいた。テーブルに、いつの間にか一枚のカードが置かれていた。
「……何?」
「クレジットカード。パスワードは、『死にたくないよ〜ん』」
「……今さら金なんて必要ない……」
「あるわ。軍資金だから」
「?」
 ティディアの言葉に、ニトロは眉をひそめた。
「つまり?」
「ゲームをしましょう」
 ニトロの促しに、ティディアは続けた。
「黙って殺されるのは嫌でしょう? こんな理由で」
「当たり前だ」
「だったら逃げてみ。私から」
 そのセリフに、ニトロは全てを察した。
「これが狙いか」
「そう!」
 ティディアは、うっとりと手を組んだ。
「一度やってみたかったのよ、人間狩りマンハント!」
「あほーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっっっ!!」
 あらん限りの力を振り絞ったニトロの罵倒は、ティディアの心には誉め言葉として届いたようだ。
「そうよ! だって私は、クレイジーだもの!」
「限度があるわ!」
 憤激の怒声を浴びせ、ニトロはひったくるようにクレジットカードを手にした。
 そして、意を決して立ち上がる。
「よーし逃げてやる。逃げてマスメディアにこのこと話してやる。いくらなんでもそれで俺を殺そうなんざ、世が許さねーだろうからな!」
 歩幅大きくズカズカと、ニトロはエレベーターに歩いた。殴るように下への呼び出しボタンを叩き、その手を拳にしてティディアに差し向ける。
「下手打ったもんだな、これでお前も終りだ!」
 ティディアはソファに座ったまま、余裕の笑顔を向けている。その様子に、ニトロは腸煮えくり返る心持ちで、言った。
「絶対、その澄ました面泣き顔にしてやる!」
「君の家、お金あるよね」
「それがどうした」
 確かに、相続した遺産は予想をはるかに超える額であった。地方公務員であった両親の給料には釣り合わぬ資産に、驚き首を捻ったものだった。
「君の両親が稼げると思う?」
「無理」
 即答して、ニトロは息を飲んだ。最悪の想像が、脳裏を疾風のように駆け抜けた。
「…………まさか」
「税金の不透明な使い道」
 絶世の美女が、絶世の笑顔を見せる。
「マスメディアに駆け込んでみなさい。私の婚約の秘密を『盗んだ』、横領罪の共犯者さん」
「……うおお?」
「税金泥棒と、王女の秘密を盗んだスパイ。嗚呼、今この瞬間から、ニトロ・ポルカトは捕まったら重罪確定な犯人になりましたとさ」
 茶化すようなティディアの、この上なく楽しそうな声は、すでにニトロの耳には届いていなかった。彼は膝から崩れ落ち、髪も真っ白に焦点の合わぬ双眸で『メリーさんのひつぎ』を口ずさんでいる。
「犬。その子を玄関まで送って」
 ニトロの気づかぬ間に、エレベーターは到着していた。そこに乗っていた執事が、ティディアに命じられるまま、彼の首根っこを掴んで引きずっていく。
 その様子を、獲物を見つめる猛禽の眼差しで見つめていた彼女は、肩を震わせて舌なめずりをした。
「楽しくなりそう」
 目を細め、彼女は恍惚の顔で両肩を抱いた。

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