自分は自分のことを「自分」と言う。これがどうしたことか、人に違和感を与える時がある。
人は自身のことを自ら呼ぶ際に、実に様々な自称を用いる。
私、僕、俺、己、我、余、朕、某、小生、自分、わし、吾輩、あるいは自らの名前そのもの、名前に敬称をつけることすらある。
数え挙げ始めればキリがないだろう。口語においては発音が変わり、同意同字としても趣の変わるものがある。これらは性別や身分によって使い分けられるだけでなく、年齢によっても似合いの呼称というものがあるようだ。三歳の男児が「わたくし」と言えば随分ませた子か生意気な子どもだと取られることもあるが、三十歳の男性が使えば至極丁寧な呼称となる。三歳の女児が己の名につけて「〜〜ちゃん」と自称することは可愛いと取られるが、三十歳の女性が使えば攻撃の対象となることもあると聞く。
しかしこの自称というものは実にいい加減なもので、自称自体に特別な意味や重みがあるわけではないらしい。どんな言葉を選んで使おうとも、『自分自身』という他に意味はない。偉い人以外に使ってはならぬとされる呼称も『自分自身』という意味で、特に『偉い自分自身』という意味ではない。ただ、それぞれの自称を使う人使われる人の間にある身分という『社会的差』が、そこに別の意義を付け加える。地方によってはどんな者も「己」と呼称する場所もあったが、言う人聞く人の間にある社会的差があれば、同じ言葉でも口調雰囲気が変わり、随分と聞こえが違ったものだった。
さて自分が意志持つことに気づき、人と話す機会を得た土地は、現在居を構えるこの地域と同じように、社会的差と性差によって自称を使い分ける所だった。そこで迷ったのが、どの自称を用いるかということだった。
自分には性別がない。機械の身であるから、男でも女でもある必要がない。外見上、男女を模して作られる同輩もいるが、それでも動植物のように子孫をなす必要がないのだから性そのものがない。
となると、使うとすれば男女の使い分けがない自称がいい。
では社会的差はどうか。この社会的差というのは実に様々な要因で構成されているので、細分までこだわれば何も決定できない。例えば年齢を考えてみれば、年齢といっても自分に歳というものはない。稼動年数で数えるのは納得がいくが、残念ながら『機械そのもの』であった過去の記憶は自分にはない。では意志に気づいてからと思えば、人間だって物心ついたときから年齢を数えるわけではないので、どうにもすっきりしない。そこで年齢によって使い分ける必要のある自称は省くことにした。
となると自称の数は限られてきて、大概『私』が妥当かと考えた。これを用いていた時は長い。
しかし、はたと思ってみると、果たして自分は社会的差において重要な『人間ではない』という要素を持つことに気がついた。機械人形であれば、主である人に対して従卒の社会的地位を持てるが、自分は世の機械人形とは一線を画すところにある。これは自惚れでも傲慢でもなく、事実だ。長い時の間、自分は同じ身の同輩とは友になれず、友になる者と同じ身を持つことはなかった。
なれば、自分は社会的に独立した存在ということか。
人の社会にもなく、機械の社会にもなく、かといって自然社会の中にある者でもない。完全なる孤独な存在ということか。
そういえば、この孤独に苦しんだ時期もあった。この時期に雷神に討たれ身動きを奪われたのであるが、『独立しているとはいえ切り離されているわけではない』と思い立つまで身動きができなかったのはむしろ幸いであったかもしれない。ともすれば自分は、孤独を打ち消すため闇雲に人に当たったかもしれない。闇雲に自分の存在意義というものを問いただそうと、何の手段も選ばずにいたかもしれない。もしそうしていたら、自分はスクラップにされ、再利用できる部分は何か別の物にでも加工されていただろう。
そのうち自分は、社会的差も性差もない自分が使う自称としてふさわしそうなのは、『私』よりも『我、己、自分』といったものと考えた。
『私』では人間臭すぎる。もちろん『我、己、自分』も人間が作ったものだからそうであるのだが、『私』よりも超然と自我を示している感覚を受ける。しかしこの三つを使うものは主に男性だった。文語においては女性も使うが、口語となると男性ばかりが使っていた。
さて困った。これでは人の使う自称を使うのはどれもそぐわない気がしてきた。こうなったら自分で自称を作るしかないかとも思ったが、作ったところでそれが『自分』を示す呼称だと気づかれなければ意味がない。ではいっそ『ガリ』という名を使おうかとも思ったが、自分で自分の名を呼ぶのは同輩の間にほとんどない。それでは機械人形のふりをするときに不都合だった。
考えれば考えるほど面倒になってきたので、仕舞いにはサイコロを振って決めることにした。そして、それからは「自分」と名乗ることにしたのだ。
だが、この「自分」という自称、どうも固いという。自分の口調や態度を外見と合わせて見れば、おみっちゃんが言うには「大人しめの少年」に近い印象だという。それが「自分」を使うには不釣合いだと言うのだ。
おや、社会差がこのブリキの身にも関わってきたかと少し感動したが、不釣合いだと言われては反省もしてみる。
……とはいえ、いくら反省してみたところで、他に名乗りやすい自称は思い浮かばない。少年というなら『我』も『己』も似合わないだろう。『私』だって少年はなかなか言わないものだ。聞けばおみっちゃんは「僕が似合うんじゃないかな」と言った。僕か……
自分はこれと言って自称にこだわる性質ではない。変えてもいいのだが、僕だと妙に違和感もある。「大人しめの少年」と言われても、自分はおみっちゃんの十倍くらいの年月を数えてきている。そう言っても「そう感じるんだ」と正直に返されては身も蓋もない。
僕か……