草紙 〜おるそん氏〜

 おるそん氏は貸し本屋に住み込みで働いている。褐色の肌は周辺では珍しく、生まれは違う土地と伺わせた。聞いてみるとやはりそうで、自分と同じように旅をしている途中でここに居ついた口だという。
 無骨な体躯ながら柔和な顔をしていて、そのくせ不思議と無精髭が似合っている。とても博学多識で、聞けば故郷では学位を取得しているという。歳を訊ねてみたら、三十と六だということだったが、そうは見えない。彼の陽気な性格も手伝っていると思うのだが、それより十は下に見えるし、おみっちゃんも同意していた。
 学位を取って学者にならず、なお旅に出ようというのだからその動機を訊ねれば「もっと色々なことを見たくて、知りたかった」と言う。それは自分の旅を始めた理由に同じところがあった。そんなこともあって親近感を覚えているのだが、このおるそん氏、自分が他の機械人形と違うと気づいたのは初めてあってから随分経ってからのことだった。
 確かに記憶を覗けば、書斎の整理をしている最中に、家主殿の本を借りに来た彼が自分と交わした言葉は少ない。初対面の時は家主殿と茶番くんもいて、二人とは普通に話していたのだが、おるそん氏は書斎の整理の記録を話しているとしか思っていなかったという。実際、整理整頓などは機械人形の得意とするところだし、その役目を持つ同輩は数多い。おるそん氏がそう判断し、それからもそう思い続けたのも無理はない。
 だから、おみっちゃんと自分のことが町の話題に上がり始めていた時、茶番くんから相談を受けたおるそん氏は素っ頓狂に驚いたという。普段取り乱すことのないおるそん氏がどのように素っ頓狂に驚いたのか見たくもあった、少し残念に思う。
 とはいえ、それ以降もおるそん氏は以前と変わることなく自分に接するのが面白い。驚きはしたが、機械人形であることには変わりないと言うのは正しいし、そういう意味では家主殿や茶番くん、特におみっちゃんとは自分に対する接し方は一線画したものを持っている。
 だが自分を機械人形とまるで同じに扱うというわけでもなく、友として思っていることは確かだ。だから茶番くんと知恵を絞ってくれて、助けてくれた。
 ではどう思っているのかといえば、『機械人形ではあるが機械人形と言い切れるわけではなく、自我は人間には近いがかといって人間と同じという確証はない。だが感情のようなものも見受けられるので、それを踏まえたうえで、機械人形であるという前提と共に人間に近しいものとして考える』といった、茶番くんの言うところの「実に学者らしい考え方」でいるそうだ。
 しかし、それは自分には大変興味深い。なぜなら自分もそう思っているからだ。それは自分の存在理由を考える大前提であるし、そういう存在がなぜ自分という自我を持ったのかという問いへの入り口でもある。
 茶番くんは「ガリはガリ」としか言わないし、おみっちゃんは自分をむしろ人間のように扱う。だから、こういった話ができるのはおるそん氏だけだ。傍から見ていると哲学論者の問答に思えるそうだが、自分の存在が人の言う哲学への問いのようにも思えるのでそれはしかたがないことと思う。

 おるそん氏は本が好きで、『哲学論者の問答』の他には本の話題が多い。自分はいつまでも同じ姿勢でいることができるし、どんなに退屈だとしても眠ることはない。だから話し出すと止まらないおるそん氏の本の感想も聞き続けられるから、彼は遠慮なく語れる相手ができたことを喜んでいるようだ。
 確かに、彼の感想は長い。聞きたがらない人が多いだろう。普段の知的な彼からは想像できない興奮が見られるから、彼もなかなか語るのを止められないと見える。彼自身も自覚はしていて、「悪い癖だ」と苦笑いする。自分にとっては考察の材料が増えるから問題のないことではあるが、実際玉に瑕とはこのことだろう。
 また自分は見聞きしたものを滅多に忘れないため、旅先の記憶でうろんなことがあると聞いてくる。さすがにこちらがどんなものかを聞き返す事もあるが、大抵は答えられる。旅の話となると互いに色々な土地を回ってきたため話題は尽きない。この時ばかりは周りの人が集まることも多い。
 もちろん世間話のような、とりとめもない会話を興じることもある。

 こうして書きまとめてみると、最も親しい三人の中でおるそん氏は風向きが違う。茶番くんに話したところ、言うなれば「学友」といったところかと評していた。自分は学び舎に通うことなどできはしないが、どういったものか憧れはあった。おみっちゃんは「友だちといる時は楽しいけど、授業は退屈なだけだよ」と言っていたが、その退屈ですら味わってみたくもある。
 なればこそ、その趣を少しでも味わえるのは嬉しいものだ。

メニューへ