草紙 〜1〜

 書斎の整理もいくらか仕舞い、一段落がついた。
 他に何かやることはないかと家主殿に尋ねれば、書斎の管理さえしてくれれば良いと言う。ただ住まいの身の上に少々心苦しくもあるが、せっかくの厚意には甘えたいと思う。お陰でゆっくりと考える時間ができた。
 これまでは長い旅を続けてきた。孤独のまま過ごした長い時もあった。一所に長く居つき誰かと過ごすのは、この体を修繕する術を教えてくれた親方の家以来だ。おそらく、ここではそれよりも長く過ごすことになるように感じている。
 思えばここにたどり着き、すでに数ヶ月。暮らしにも慣れ、友もできた。住むまでは土地の水は分からないものだが、幸い、ここは居心地が良い。
 穏やかな四季のある風土、静かな環境。様々なものを飲み込んだ中心街からは少し離れているものの、利便は良い。中身は違えども機械人形は珍しくなく、ことさらに目立つこともない。以前、自分を見世物にしようとした者もあったが、周りにそのような輩もない。
 近くには気に入りの場所もできた。大池の公園、鳥歌う森の中にある茶屋、猥雑とした繁華街の内にある小さな社もいい。
 しかし、特に友たちがいい。
 親しくさせてもらっている人達と過ごす時は楽しい。中でもよく顔をあわせる三人の友には世話にもなっている。
 家主殿に世話になっているわりに態度の大きい居候の「茶番くん」は自分には優しくしてくれて、自分が味を分析することで感じられると知るや美味しいお茶や酒肴を振舞ってくれる。
 修繕に使う油を届けてくれる「おみっちゃん」は快活で、少し乱暴な物言いをする人だけれども可愛がってくれている。
 貸し本屋の「おるそん氏」は読んだ本の感想を長く語りすぎるのが玉に瑕だが、その時の顔を見るになんと幸せそうかと微笑ましくもなる。
 彼らと会うときは記憶を整理し思考に耽ることはできないが、別れた後に歯車の動きがよくなっていることに気づく。人の言葉とすれば、元気になるというところだろう。
 緩やかで、時に賑やかな日々は気に入っている。自分が壊れるまでこの生活が続くとは思わないが、続く限りは甘受したいと思う。

 思考をまとめるには、それを何かしら形にしたり、言語化したりしてみるのもいいらしいと家主殿が教えてくれた。自分の記録回路は事実を整然と並べているものの、それらを有機的につなげて発展させることは得意としていない。単純な命令を実行するだけの他の機械人形と違い人間のごとく思考することはできるが、その作業は漠々としていて、コツは捉えきれていなかった。
 試しに一つ書いてみたが、なるほどこれはいい。
 ただ思考するときよりも、自分が考えていることをより具体的に観ることができる。
 昔、日記というものをなぜ書くのかと人に訊ねたことがある。答えは毎日の出来事を覚えていることができないためということであったが、それとはまた別に、一日の出来事を深く自身の内に落ち着かせるためもあるのではないだろうか。
 記憶するだけではなく記録するということは、もしかしたら己と向き合うことに他ならないのかもしれない。

メニューへ